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第33話 元侯爵家の料理人

食堂の裏口へ現れた男を見て、私は一瞬だけ昔へ引き戻された。


「オーギュスト……」


 侯爵家で料理長をしていた男だ。四十代後半、白い口髭は相変わらず整っているが、上着はくたびれ、目だけがひどく疲れていた。


「無礼を承知で参りました」


 彼は深く頭を下げる。


「あの家で、私は見て見ぬふりをしました。奥様が削っていた予算の意味も、愛人の食器代がどこから出ていたかも、全部分かっていたのに」


 謝罪だけなら受け取りにくい。だが、男は次に布包みを差し出した。中には乾燥肉の調合表と、長期保存用の香草塩の配合が入っている。


「これだけは、持って逃げました。北で使うなら、役に立つはずです」


 マルタが横から覗き込み、目を見開く。

「この塩、魚にも肉にも回せるね」


 私はしばらく考えた。過去を帳消しにはしない。けれど、使える手を捨てるのも違う。


「条件があります」


 オーギュストが顔を上げる。


「ここでは、誰かの見栄のために台所を動かしません。食べる人のためだけに働けるなら、臨時雇いとして入ってください」


 男は震える声で答えた。

「はい」


 その日のうちに、彼は保存食の下ごしらえを始めた。香草塩で締めた魚は驚くほど持ちがいい。さらに彼は、侯爵家へ出入りしていた木材商の名前も覚えていた。


「クレッセ男爵領の別荘へ、橋板と乾燥肉がよく流れていました」


 私は顔を上げる。橋板まで。


 やはり、あの男爵領は道を直していない。直すための金と資材を、別の場所へ積み上げているだけだ。


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