第30話 団長と夜明けの契約書
砦へ戻った夜、私は眠る前にもう一枚の書類を仕上げていた。
表題は『家計および居所に関する共同契約書』。要するに、私とヴィクトルが婚姻後も揉めないようにするための細則だ。
「本当に書くのか」
向かいに座るヴィクトルが、少しだけ面白そうに言う。
「書きます。愛情は口約束でも、生活は文面があったほうが平和です」
私は一つずつ読み上げた。私の執務時間、食堂の最終決裁権、共同予算の上限、寄付や臨時支出の扱い、来客室と寝室を分けて使う期間のことまで。
ヴィクトルは途中で一度も嫌な顔をしなかった。
「追加は?」
「朝食はできる限り一緒に取る」
私は顔を上げる。
「それは契約条項ですか」
「重要事項だ」
笑ってしまったせいで、ペン先が少し揺れた。
署名を終えると、外は薄く白み始めていた。夜通し働いたせいで肩は重いのに、気持ちは妙に軽い。
「あなたは、面倒な女だと思わないんですか」
私が問うと、ヴィクトルは紙を丁寧に畳んだ。
「面倒を面倒のまま放っておかないところが好きだ」
言葉に詰まった私の手を、彼はごく自然に取る。
「朝が来るたび、確認しなくていい暮らしにしたい。そのための書類なら、いくらでも書く」
私はようやく頷いた。
「では次は、街道の契約書です」
「その前に少しだけ休め」
そう言って額へ落ちた口づけは、火よりも静かで、でも眠気を全部持っていくほどあたたかかった。




