第27話 隣領から来た横取り提案
塩船の件で港へ向かう準備をしていた朝、先に砦へ現れたのはクレッセ男爵の執政官ブリクスだった。
よく磨かれた長靴に香りの強い油、にこにこ笑っているくせに目だけが計算高い。侯爵家にいたころ、何度も見た種類の男だ。
「ミレイユ殿のお噂はかねがね」
応接室へ通すと、彼は勝手に座って言った。
「クレッセ男爵家では、優秀な家政監督を探しておりましてね。今の砦より、もっと相応しい待遇をご用意できます。独身の女主人という立場も悪くないでしょう」
独身。わざとだ。
「私は砦の給養監督官です」
「ですが、いつまでも騎士団の食堂で終わる器ではない」
そこでヴィクトルが静かに扉を開けた。ブリクスの笑みがほんの少し固まる。
「うちの給養監督官へ何か用か」
「ただの好意的な引き抜きですよ、団長殿」
私は机の上へ一枚の領収書を滑らせた。昨日、関所で集めたものだ。そこにはクレッセ男爵領の印と、ブリクスの署名がある。
「好意の前に、こちらの説明をお願いします。橋の補修費を三度取りながら、屋根一枚直っていない理由を」
ブリクスの指先がぴくりと動いた。
「それは領内の事情です」
「砦の補給費を食べているなら、こちらの事情でもあります」
彼はすぐに笑みを戻したが、目の温度は消えていた。
「強いですね、ミレイユ殿。ですが、街道は貴女ひとりでは動きませんよ」
「ええ。だから、私はひとりでやっていません」
ヴィクトルが何も言わずに私の隣へ立つ。その一歩だけで十分だった。ブリクスは椅子を引き、軽く礼をして去っていく。
残った香油の匂いに私は鼻をしかめた。
「分かりやすい男でした」
ヴィクトルが淡々と返す。
「気に入らない」
「引き抜きですか?」
「その言い方もだが、あなたを値段で動くものだと思っている顔が」
私は少しだけ笑う。いい。相手はもう、自分から名乗り出た。




