第25話 値札のない婚約指輪
その夜、私は自分の部屋で指輪を外して机の上へ置いた。
値札はない。だからこそ、ときどき不安になる。私は誰かの妻という肩書きで押し込められるのが嫌であの屋敷を出た。なのにまた、別の指輪を受け取ってしまった。
扉を叩く音がして、ヴィクトルが入ってくる。手には二枚の紙があった。
「イザークに書式を借りた。契約書だ」
「何の?」
「婚約後の取り決め」
私は目を瞬かせた。紙には簡潔にこうある。ミレイユはノルトヴァルト騎士団給養監督官として独立した権限と報酬を持つこと。婚姻後も職務を継続すること。家計は共同だが、個人の裁量費は互いに干渉しないこと。住居は砦内別棟の二階を改修し、執務机は二つ置くこと。
「……本気ですか」
「本気だ。あなたが不安に思うなら、最初に数字へしておいたほうがいい」
私は思わず笑ってしまった。こんな求婚があるだろうか。花より先に、生活と権限の明細だ。
「可愛げがないと言われますよ」
「あなたに必要なのは可愛げより安心だろう」
その一言で、胸のつかえがすっと落ちた。
「では一つ追加です」
「何だ」
「無駄に高い家具は禁止。実用品を優先」
ヴィクトルは即答した。
「異論なし」
私は改めて指輪をはめる。値札がないのは、所有物ではないからだ。これは私を縛る輪ではなく、並んで暮らす約束なのだろう。
「公表はもう少し待ちましょう」
私が言うと、ヴィクトルは頷いた。
「街道の問題を片づけてからだな」
机の上には契約書、窓の外には砦の灯り。私はようやく、結婚という言葉を怖がらずに見られる気がした。




