第20話 毎朝、団長が迎えに来る
春の朝は、冬より少しだけ匂いが柔らかい。
ノルトヴァルト砦の食堂では、新しい麦と干し果実を使った朝粥が鍋の中でふつふつと煮えていた。食糧庫の棚札は揃い、仕入れ帳は整い、誰かが隠れて中身を抜くこともない。
私が扉の鍵を開けようとしたところで、足音が止まる。
「今日も早いな」
振り返ると、ヴィクトルがいつものように立っていた。片手には焼きたての小さなパン袋、もう片方には湯気の立つ茶器。ここ最近、彼は本当に毎朝私を迎えに来る。最初は雪道が危ないから。今は、もう言い訳もしていない。
「団長のほうこそ」
「給養監督官殿を待たせたくない」
私は笑いながら扉を開けた。食堂へ入ると、ヴィクトルが自然な手つきで茶器を机に置く。
「返事を聞いてもいいか」
その一言で、胸の中の迷いがきれいに形を失った。
私は彼の前へ歩み寄り、差し出された箱を両手で受け取る。銀の指輪は相変わらず静かな光をしていて、持ち主に似ていると思った。
「姓を急いで変えるつもりはありません」
「構わない」
「仕事も手放しません」
「分かっている」
「それでも」
私は顔を上げる。
「明日も、その次も、迎えに来てください」
ヴィクトルの目がやわらいだ。彼は私の指へそっと指輪を通し、低い声で答える。
「一生でも」
ちょうどそのとき、朝食の鐘が鳴った。食堂の向こうでマルタが鍋を混ぜ、兵たちの笑い声が近づいてくる。生きていく音だ。
夫の愛人に家計を奪われた朝、私は自分の人生まで失ったと思っていた。けれど本当に失うべきだったのは、私を都合よく使う場所のほうだった。
帳簿も、台所も、朝の食卓も、今は全部自分の意思で選んでいる。
ヴィクトルが当然のように私の手から帳簿を受け取り、隣へ並んだ。
「行こう、ミレイユ」
「ええ、団長」
朝食は毎日やって来る。だからこそ、その隣に立つ相手は、自分で決めるのだ。




