第16話 もう侯爵夫人ではありません
査問の前日、レナードは我慢しきれなくなったらしい。
昼下がりの砦の中庭へ、豪奢な馬車で乗りつけてきた。セリーヌまで連れているあたり、最後まで見栄を捨てる気はないのだろう。
「ミレイユ、勝手な真似も大概にしろ」
馬車から降りるなり、それだ。
訓練帰りの騎士たちが足を止める。サビーネも会議室の窓からこちらを見ていた。
「勝手なのは、軍需金を愛人のサロンへ流したあなたです」
「証拠もないくせに」
「あるから監査官が来ているんです」
レナードの顔が引きつる。セリーヌは私を睨みつけた。
「あなたさえ黙っていれば、全部うまく回ったのに」
「それを回っていたとは言いません」
私は鞄から書面を取り出した。王都で正式に作成しておいた離縁申請だ。
「レナード・クラウゼン。私はすでに離縁の申し立てを終えています。今後、私へ夫としての権利を主張しないでください」
「妻が夫に逆らうのか」
「もう侯爵夫人ではありません」
言い切ると、胸の奥まで風が通った気がした。
レナードが一歩踏み出した瞬間、ヴィクトルが私の前へ出る。
「それ以上近づくな」
「部外者は引っ込め」
「ここは俺の砦だ」
短い言葉なのに、空気が一変した。レナードは初めて、自分がもう王都の応接間ではなく、辺境の石畳に立っているのだと思い出したらしい。
彼は唇を歪め、最後に捨て台詞だけ残した。
「明日の査問で後悔するなよ」
「後悔するのは、帳簿を読めなかった人のほうです」
馬車が去ったあと、中庭に張っていた緊張がふっと解けた。
ヴィクトルが振り返り、私の顔を見て少しだけ眉を寄せる。
「平気か」
「ええ。思ったよりずっと」
自分でも不思議だった。怖くないわけではない。でも、もうあの人の声で立ち尽くす私ではない。
その事実が、何より私を支えていた。




