第10話 はじめての黒字
月末の締め日、私は食堂の帳簿を前に深く息を吐いた。
数字が、きれいに揃っている。
余剰金は決して大きくない。けれど、前月の赤字を埋めたうえで、ほんの少しだけ黒が残った。ノルトヴァルト砦の食堂が、ようやく自分の足で立てるようになった証だ。
「どうだ」
後ろから覗き込んだイザークに、私は帳簿を向けた。
「黒字です」
一瞬の静寂のあと、彼は子供のような顔で叫んだ。
「マルタ! 黒だ! 本当に黒いぞ!」
厨房中がどっと沸いた。マルタは粉だらけの手で私の背中を叩き、ブルーノは泣きそうな顔で棚札を撫でている。
ヴィクトルが遅れて食堂へ入ってきたときには、すでに祝勝会のような騒ぎだった。
「何事だ」
「おめでとうございます、団長」
私は帳簿を差し出す。
「食堂、初の黒字です」
彼は数字を見て、少しだけ目を見開いた。それから、静かに言った。
「あなたが来てくれてよかった」
その一言に、胸の奥がじんと熱くなった。
私は余剰金の使い道を提案した。肉を増やすのではなく、兵たちの冬靴の中敷きと厨房の灯油を買う。長く続く改善ほど意味のある贅沢はない。
「賛成だ」
ヴィクトルは迷わず承認し、食糧庫の大きな鍵を私へ差し出した。
「正式に預ける」
金属の重みが手のひらに乗る。レナードが愛人へ金庫の鍵を渡した朝とは、まるで違う重さだった。
「失くしたら困りますよ」
「あなたは失くさない」
断言されて、思わず笑ってしまう。
その夜、食堂では少しだけ甘い焼き菓子を出した。高価な砂糖は使わず、干し果実を煮て甘みを移しただけの素朴なものだ。それでも兵たちは大騒ぎで喜び、ヴィクトルはいつものように最後の一欠片まで残さなかった。
黒字は数字にすぎない。けれど、その数字は確かに、私の居場所をこの砦に作っていた。




