東禅寺城の攻防
酒田の南、出羽三山の麓、今で言う鶴岡市に大宝寺城がある。
出羽大泉氏が、この大宝寺城を居城とし、武藤大宝寺氏を名乗った。
大宝寺氏が飽海の砂越氏と対抗するために築いたのが酒田にある東禅寺城である。
ちなみに関ヶ原の戦いの頃に、東禅寺城に大きな亀が現れたのを吉兆として東禅寺城の名前を「亀ヶ崎城」にあらためた。
その時にあっちが亀ならばと大宝寺城は「鶴ヶ岡城」となった。
数年前に大宝寺城は砂越氏に焼かれて、大宝寺氏の居城は今、西の海辺の山の中にある尾浦城である。
そして、東禅寺城には今は、大宝寺氏の城代はおらず、酒田港三十六人衆が自治城として、すぐ東にある砂越氏の砂越城と睨み合っている。
今回、佐渡本間家が酒田港三十六人衆の一員になるにあたり、一度きちんと大宝寺氏、砂越氏と会談を持っことにした。
佐渡外交・諜報部門から大宝寺氏、砂越氏と本庄氏にも書状を送り、日時調整(意外とスンナリ決まった)もして、東禅寺城にて会談が行なわれる事となった。
せっかくなので、会談の席では今の佐渡の贅を尽くしたオ・モ・テ・ナ・シをしたいと思い準備を始めた。
ところが、東禅寺城で会席を整えていると、すぐ東の砂越城が徴兵を始めた。
「会談を前に徴兵を始めるとは何事か!?」
と、酒田港に詰めていた御守衛隊と会席の準備をしていた者も走り回らせて、
「徴兵に応じる必要はない。もし、兵として出るなら砂越城ではなく、東禅寺城側で兵に出られよ」
と触れて回らせた。
徴兵に回る砂越氏の家来と、徴兵に応じる必要はないと触れて回る御守衛隊との間でイザコザが起こる。
酒田に詰めている御守衛隊員は、以前から酒田港の三十六人衆が雇っていた用心棒(再雇用)と、本庄氏が派遣している帯刀したご家来衆だ。
会席の準備をしていた者は佐渡のスコップ部隊でもあるので、砂越氏の家来と相対しても、そう簡単にやられる者ではない。
そこここで、徴兵に回っている砂越氏の家来を追い払っていた。
しかし、しょっちゅう大宝寺氏と戦をして徴兵慣れしているからだろうか、砂越城には、それでも100人ほどの領民が徴兵されていた。
東禅寺城側にも20人弱の領民が集まって来ていた。
その日のうちに中浜村の港湾施設(要塞)に、その酒田の様子が伝えられた。
中浜村の港湾施設(要塞)には、会談のために前乗りしていた、本間有泰と馬場正時と藍原蔵人と菱田翔吾が、他にもスコップ部隊を五人ほど護衛に連れて来ていた。
(会談は各陣営から当主(もしくは名代)と他三名(プラス毒見役)で行なわれる予定だった)
アリヤス、ババさん、クロードは港湾施設(要塞)に待機してもらっておいて、俺は護衛に連れて来ていた五人のスコップ部隊と一緒に酒田港に駆けつけて、酒田の御守衛隊と合流した。
本庄氏からも御守衛隊員が増員されてきた。
砂越氏の家来衆も合わせて200人ほどの軍勢が、酒田港(東禅寺城)に向けて砂越城からうって出た。
半刻(一時間)から一刻(二時間)で着く距離だ。
俺達は東禅寺城に入って砂越軍を迎え撃つ。
砂越軍の先頭が見えると、俺はひとりのスコップ隊員に焙烙玉に火をつけてスリングで投げるように指示した。
まだ、全然届かない距離だったので、焙烙玉は砂越軍のかなり手前で爆発した。
途端に前の方を進んでいた足軽(徴兵された農民兵)たちが、バラバラと逃げ始めた。
続けて今度は油玉をスリングで投げる。
これは回りに油を撒き散らすだけで爆発はしない。
続けて二発目の焙烙玉(に火をつけて)を投げる。
また爆発が起こった。
しかし、ちょっと油玉の位置からズレたか?
油に火はつかなかった。
それでもやはり、爆発音の効果は絶大で、足軽(徴兵された農民兵)たちは、ドンドン逃げて行った。
その様子を見た砂越軍(家来衆)達は、それ以上の進軍をやめて、砂越城に引き上げて行った。
翌日は会談の予定日だったが、オ・モ・テ・ナ・シの準備ができていない。
砂越氏は砂越城に籠もっている。
大宝寺氏と本庄氏は、それぞれ50人ばかりの手勢を連れて、東禅寺城にやって来た。
中浜村からはアリヤスとババさんとクロードが来た。
天気が良かったので、昨日のうちに佐渡からはハーモタイプ5隻でやって来たスコップ部隊を引き連れて…
焙烙玉と油玉の実験は技術・開発部門で繰り返し行われているが、実は油玉にうまく火がついたことはない。
燃えている木とかに油玉をぶつけて燃え広がることはあるようだ。




