近衛晴嗣(前久)の大移動
天文十八年の春に地震が起こり、上杉憲政が越後にやってきたのがその秋。
幕府に使者を送り、冬を越して上杉憲政を平井城に帰し、上野で仕事をつくって食わせてやるからと、上野から越後へ逃げてきた領民も(上野以外から来た者も)集めて送還した。
天文十八年は地震の影響で田植えができなかった土地が多かったが、天文十九年は佐渡からの援軍も送って上野でも田植えを終えた。
前橋(厩橋)の長野氏の領地からは、利根川を利用して古河公方のお膝元、梁田氏が管理する関宿まで、小さいながらも川船で行き来していた。
関宿は関東の荷の集積地としておおいに賑わい、古河公方の支えになっている。
佐渡から関東くんだりまで出張るのだから、せめてこの利根川水運に絡んで関東での活動の資金源にしたい。
援軍で送り込んだスコップ部隊から、安中氏、金井氏、和田氏らの領地を流れている利根川の支流を整備すれば、利根川水運につなげられそうだとの報告が来ている。
これは、どこか適当なところに拠点をもらって、河川整備と川船造りに勤しもう。
田植えを終えた援軍部隊員には、周辺調査や利根川水運の現状調査を命じた。
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京から近衛晴嗣(前久)が越後にやってきたのが、天文十九年の夏の終わり頃だ。
これから収穫もあるし、佐渡と越後の少ない兵数で関東に向かおうと思っていたが、話を聞きつけた佐渡(本間家)勢力下の各領主が、続々と越後に集まりだした。
幸い越後も、越中、庄内も兵糧蔵は満杯だし、仕方がないので兵站部隊を大幅に増員して三国街道を南下した。
北信濃の各領主も、碓氷峠を越えて平井城へとやって来た。
何をどう聞きつけたのか、機をみるに敏と言うべきか、平井城には蘆名氏も駆けつけていた。
平井城から関東の各領主に召集令を出してから、上野勢も合流してさらに南下をはじめる。
目指すは江戸城だ。
各領主の出頭先も江戸城にした。
この時の江戸城は北条の支配下にあり、城主は北条の重臣、遠山綱景が務めていた。
江戸城は河越城よりも南だ。
北条氏康は小田原におり、この時、河越城には北条綱成が詰めている。
河越城を横目に、御内書を持つ第十三代征夷大将軍足利義藤の名代、近衛晴嗣の御一行は進む。
もし、北条綱成が御一行の横腹をついて攻めてきたら、せっかく関東管領にしてやろうと言うのに、全てご破算だ。
河越城の綱成にも、小田原の氏康にも、関東平定の概要は先に知らせておいた。
お気に入りの錦の御旗の旗手、上杉定虎を大将に、近衛晴嗣と一緒に京からやって来た遊佐長教、能登の遊佐宗円、長続連、越中の椎名康胤、越後からは直江景綱、長尾政景、中条藤資、柿崎景家、宇佐美定満らが、庄内から大宝寺義増、上野から長野業正、長野道安、上杉憲政、信濃から高梨政頼、島津忠直、井上清政、会津から蘆名盛氏、佐渡からは本間高信と本間泰高、それに俺、菱田省吾も同行する。
道中、合流して来たのが太田氏、真里谷氏、結城氏、そして呼んでもいないのに甲斐から武田晴信もやって来た。
この辺は、さすがの諜報力といったところか…
江戸城城主、遠山綱景は「第十三代将軍足利義藤の名代」と名乗られては開門せざるを得ず、近衛晴嗣をはじめ、各大名、領主達も江戸城に入る。
江戸城に着いた時には軍勢は三万人くらいまで膨れ上がっていた。
江戸城下に張られた陣は、さながら攻城戦の攻め方の陣のようであった。
「第十三代将軍足利義藤の名代」御一行様が江戸城入りしてから、召集令に応じてやって来たのが、宇都宮氏、那須氏、千葉氏、成田氏、小山氏、佐野氏、里見氏、小田氏、佐竹氏。
北条氏康も召集に応じてやって来た。
来なかったのが、古河公方こと足利晴氏だ。
古河には、足利晴氏と義氏、藤氏揃って参じるように伝えたが、来たのは義氏だけだった。
足利晴氏、藤氏に代わり、梁田晴助が江戸城にやって来て、逆に「皆が古河公方の下に参じよ」と命令してきた。
梁田氏には、「そのような態度を取り続けるようなら朝敵とみなす」と伝えられよと言って帰した。




