幕府の新体制(かなり歯抜け状態だが…(;´∀`)
室町幕府は、新征夷大将軍足利義藤の今上天皇(後奈良天皇)への謁見の後、すぐに
畿内:山城、大和、河内、和泉、摂津
東海道:伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸
東山道:近江、美濃、信濃、上野、下野、陸奥、出羽
北陸道:若狭、越前、加賀、越中、越後、佐渡
山陰道:丹波、丹後、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐
山陽道:播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門
南海道:紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐
西海道:豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅、壱岐、対馬
の五畿七道に「第十三代将軍足利義藤就任」を通達した。
(その後、執事:六角定頼、管領:細川氏綱、政所:伊勢貞孝、管領代:三好長慶、四職:朝倉延景、畠山政国、波多野元秀、小寺政職を任命した)
これに対し、ノーリアクションの者、就任祝いの書状を送ってきた者、書状とともに献上品を送ってきた者、名代が参内してきた者、大名本人が参内してきた者があった。
五畿は管領細川、管領代三好の元、山城の守護職には細川氏綱が、摂津の守護に三好長慶、河内・和泉・大和の守護に畠山政国が就いた。
(畠山の遊佐長教は、度々能登と佐渡にもやって来て、幕府とのつなぎ役になっている)
淡路・阿波・讃岐守護にも三好長慶が就き、能登・越中守護が畠山義続、越後・庄内・信濃半国守護が上杉定実、近江・伊賀守護が六角定頼、越前守護が朝倉延景、佐渡守護が本間有泰、丹波守護が波多野元秀、播磨守護が小寺則職と、ここまで決まっていた。
その後、若狭平定に伴い、武田義統が若狭守護職に就いた。
武田晴信は書状で就任祝いと臣従を誓い、馬を送ってきたので、所領安堵と甲斐・信濃半国守護の追認の花押御教書が送られた。
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直接来たのは安東舜季、最上義守、伊達晴宗、蘆名盛氏、大槌広政(風神号に便乗してきた)、斎藤利政(道三)、一色義員、一条房基、大友義鑑、松浦隆信だ。
敦賀まで来れば、朝倉、六角領を通って京に入れるので、安東、最上、伊達、蘆名と大槌も日本海航路で上洛した。
奥羽は「奥州」「羽州」と一括りにされているので、これを機に「岩代」「磐城」「羽前」「陸前」「羽後」「陸中」「陸奥」に分けるように言った。
そのうえで、伊達晴宗を岩代・磐城・羽前・陸前守護に任じ、蘆名盛氏を岩代守護代、岩城重隆を磐城守護代に、最上義守を羽前守護代、大崎義隆(生まれたばかりだが)を陸前守護代に任命した。
岩城重隆は名代を伊達晴宗と同行させていた。
大崎義隆と南部晴政、浪岡北畠氏は書状と献上品を送って来ていた。
葛西氏、田村氏、相馬氏、小野寺氏は書状を送って来ていた。
(奥羽のリアクション率は高い)
安東舜季には家督を嫡男の愛季に譲らせて、湊安東家を統合させて羽後守護職に任じた。
そして、オマケのようにやって来た大槌広政には、「三陸取りまとめ」の御内書が託された。
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斎藤利政は六角領を通って、一色義員は波多野領を通って、陸路やって来た。
一条房基、大友義鑑は瀬戸内海から堺経由で、松浦隆信は日本海を敦賀まで来て、あとは奥羽組と同じ経路でやって来た。
大内、島津からは名代が来た。
(大内の名代は毛利隆元、島津の名代は島津義久)
山名、尼子、伊勢北畠、織田、今川、北条からは書状と献上品が届き、日向の伊東、土佐の長宗我部、常陸の佐竹、安房の里見は書状で就任祝いと臣従の意を伝えて来た。
大友義鑑を豊後・肥後・筑後守護に、大内義隆は周防・長門・安芸・豊前・筑前守護、尼子晴久は出雲・隠岐・伯耆守護、島津貴久は薩摩・大隅・日向守護、一条房基は伊予・土佐守護にした。
斎藤利政は美濃守護、一色義員は丹後守護、松浦隆信は壱岐守護、山名祐豊は但馬守護、北畠晴具は伊勢守護、今川義元は駿河守護、北条氏康は相模守護に任じられた。
織田、伊東、長宗我部、佐竹、里見には、それぞれ尾張、日向、土佐、常陸、安房の守護代を命じた。
書状と献上品を送ってきた織田は、大和守家の信友。
弾正忠家はノーリアクションです。




