三好修理大夫長慶
と言うことで、室町幕府第十三代将軍の組閣は、将軍職と管領職の間に執事職を置き、
将軍:足利義藤
執事:六角定頼
管領:細川氏綱
政所:伊勢貞孝
とし、
三好長慶を管領代にして、事実上の執政者になってもらう。
また、当面は侍所所司(長官)に畠山義続、上杉実虎、朝倉延景、畠山政国(遊佐長教)を任じた。
将軍様にはここに居ない畿内及び周辺諸国の有力大名に「参内して忠節を誓うように」上洛を促し、その際に今回の取り決めを追認させ、室町幕府第十三代将軍としてあらためて職を与えるように言った。
波多野氏でも山名氏でも一色氏でも、近くの有力大名が馳せ参じてきたら、畠山義続と上杉実虎は所司の職を辞して、近くの者に譲ることにした。
一条房通様には、京復興令の働きに応じて、朝廷より官位を賜るようにお願いした。
その後、さらに、
「陶が謀反を起こすかも知れない。起こさないかも知れない。けど、どっちにしても毛利とは好を結んでおいたほうが良い」
とか、
「九州は島津が頑張るよ」
とか、
「四国は長宗我部が伸びてくるよ」
とか言って、最後に、
「若狭が家督争いで揉めておりますが、放置っておくと益々ひどくなり騒乱の種になります。若狭平定の御内書を朝倉様に出してください。我らで治めてまいります」
と言って、「若狭平定」の御内書をもらった。
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細川晴元を京兆家の当主として体裁を整えて供養をしたら、六角は俺の奨めで一度近江に兵を引き、嫡男の六角義賢に家督を譲って近江を任せてから京に戻ってきた。
細川氏綱は京に残り三好長慶と協調体制を築くように、遊佐長教と細川国慶には河内に戻って足元と周辺(主に興福寺との関係)を固めるように進言した。
古津元幸は、丹波への上洛勧告の使者は自分が行くと言って丹波へ向かった。
伊勢氏には佐渡式の複式帳簿を渡して記入の仕方を説明し、今後はこの帳簿で出納報告をするように指示した。
三好長慶は伏見まで来ていた軍勢を再編成して、大半は摂津に戻し、一部で京の治安維持部隊を結成した。
三好長慶と伊勢貞孝を中心に、公卿の伝手も使って大工を集め、ここのところ能登や佐渡で仕事をしていた宮大工も呼び戻して内裏の補修に取りかかった。
並行して、壬生の治安維持部隊の屯所もつくる。
摂家が寄って集って三好長慶を修理大夫に任命した。
長慶は細川晴元と三好政長を迎え撃つための兵糧と戦費を、内裏の補修のために使わされるはめになった。
まぁ、戦わずして京を治めることになったのだからヨシとしてくれ。
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朝倉様は代替わりの挨拶も済ませたし、朝廷からは従五位上越前守を、幕府からは越前守護職を賜わったので、先に越前に帰って若狭平定のための出陣の準備をしてもらうことにした。
佐渡の部隊は京に残し、畠山軍と上杉軍も撤収させる。
佐渡の盾(壁)隊を指揮している計良高世は残して、畠山義続も上杉実虎も本間有泰、貞兼、高季もみんな帰そうと思ったが、定虎がやたらと錦の御旗の旗持ちを気に入っており、若狭平定にも使うと言ったら、それにも旗持ちで同行すると言って京に残った。
残った佐渡の兵は京の町の復興の人足としての作業を兼任し始めた。
壬生の屯所に入った三好の兵も、佐渡にならって人足働きをはじめる。
内裏の補修は相応の時間がかかるが、屯所の建設は早々に進み、復興事業は上京の町並みの再建にかかった。
そうこうしていると、播磨から小寺則職が、丹波からは使者に経った古津元幸とともに波多野元秀が参内してきた。
波多野氏は古津元幸から状況を聞かされた上で渋々上洛してきた様子だったが、新生幕府から正式に丹波守護代職と侍所所司(長官)に任命されると、そこそこ機嫌をよくした。
その後、一条房通に謁見し、房通から京復興令への貢献次第で官位を授けるとの話も聞き、丹波に戻って献金の検討を始めたようだ。
京の町の整備の第一歩は、あちこちに転がっている死体の焼却からでした(´-﹏-`;)




