葦年貢
さて、小寺氏の方だが、こちらは元々播磨・美作・備前の守護大名の赤松氏の家臣だ。
しかし、世が下剋上の時代になり、有力な家臣の浦上氏や別所氏らが台頭してきたり、山名氏や尼子氏まで攻めて来たりして、赤松氏は衰退してしまった。
(一時は淡路島まで逃げていたらしい)
小寺則職もしかたなく山名側、尼子側に与したりしたこともあったが、他の家臣よりは比較的ずっと主君の赤松氏寄りで、家督を嫡男の政職に譲ってからは、赤松氏とは和睦状態が続いていた。
細川・斯波・畠山ー三管領、山名・一色・京極・赤松ー四職のうちの赤松に変わって参じてくれたのだろう。
丹波の波多野も、播磨の小寺も、正直なところ力不足感は否めないが、能登畠山、越後上杉にいつまでも所司で居させるわけにもいかないので、せっかくなので代わってもらおう。
丹波は細川京兆家の守護下にあったが、播磨は形式的には赤松氏が守護だ。
ここはあらためて赤松氏を播磨守護には任じずに、播磨を丹波と同じように細川京兆家の守護下におき、小寺氏を播磨守護代職と侍所所司(長官)に任命することにした。
これで、
将軍:足利義藤
執事:六角定頼
管領:細川氏綱
政所:伊勢貞孝
管領代:三好長慶
侍所所司:朝倉延景、畠山政国、波多野元秀、小寺政職
の体制が出来た。
春に上洛して、半年ほど京に駐在した。
朝倉氏から挙兵の準備が整ったとの連絡も来たので、二条の足利邸と御所の周りに陣取っていた佐渡の軍を若狭に向けて出陣させることにする。
おっと… 出陣前に、せっかく京まで来たので、戦国時代逆行転移モノの定番チートの葦年貢もやっておこう。
石田三成の逸話のヤツだ。
九条稙通と二条晴良(お義父様ズ)に、六角定頼と三好長慶を呼び出してもらい、それぞれ琵琶湖(淡海)と淀川の葦の群生地に管理代官を置き、区画管理をさせて運上金を徴収させるように指示してもらった。
二人に呼び出してもらったのは、上前の上前を九条家と二条家にも納めてもらおうとの魂胆だ。
定頼も長慶も、「葦…?」みたいな面倒くさそうな反応だったが、結構な税収が見込めるらしいので、いずれ感謝してくれるだろう。
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能登畠山軍と越後上杉軍はすでに軍を引き、いよいよ佐渡の軍も京を離れて若狭に向かう。
上杉実虎が意気揚々と錦の御旗を掲げて出陣だ。
今回の上洛で矢弾はほとんど使っていないが、兵糧はすべて炊き出しで使ってしまって、京に駐在中は兵站部隊が度々食糧を運んで来ていた。
その兵站部隊も今は、今回の若狭平定のための佐渡からの援軍(工作部隊50人)と一緒に敦賀まで来て、朝倉軍に合流していた。
こちらからは京周辺でとにかく若狭までの片道分の食糧をかき集めて出陣する。
上洛していた佐渡軍は鯖街道を北へ、朝倉軍は丹後街道を西へ陸路で向かう。
佐渡からの援軍は乗ってきた「迅雷丸」で直接小浜に乗りつけた。
迅雷丸は雷神タイプの船に風斬丸と同様の武装(船首にカタパルト、左右前方には連射式クロスボウ、左右後方にはバリスタ)をした軍艦だ。
先着した上陸隊は、朝倉軍と京からの帰参軍を待つため、小浜港の今の小浜城跡がある辺りに陣を張り、港湾要塞施設を建築しはじめる。
率いてきたのは羽茂の本間高信と奈佐隠岐之助だ。
佐渡が日本海を行き来するようになり、今となっては小浜の町では、守護の武田氏よりも佐渡の本間氏の方が実質上の領主のようなものになっている。
武田氏は無意味に運上金を奪う存在であり、本間氏は儲けさせてくれる存在だ。
小浜の港は圧倒的に佐渡のホームだ。
目と鼻の先にある若狭守護の武田氏の居城、後瀬山城から「何事か!?」と物見(斥候)が来たが、陣に招き入れて、「間もなく京の将軍様から御内書が届くのでしばし待つように」と伝えさせた。
六角定頼と三好長慶には、それぞれ竹中半兵衛と黒田官兵衛を登用できたらするように言っておいた。




