石見銀山並びに鞆ヶ浦、仁満津港湾都市爆誕!
吉川氏や三刀屋氏、三沢氏等は、尼子氏が吉田郡山城を攻めていた時には尼子氏側で毛利を攻めていた。
今回の月山富田城攻めでは、大内氏側で尼子を攻めている。
一冬挟んで城攻めを再開しても攻略の糸口がつかめない状態で、石見銀山が佐渡の本間軍に支配されたとの報が入った。
佐渡軍は5000からの大軍だとの報に、石見から大内軍に参戦していた小笠原氏らは大慌てだ。
自領を攻められてはたまらないと、居城に帰ろうとした。
また、他の寝返り国人領主達も、大内側からさらに尼子側に寝返る者が現れた。
寝返った国人兵は、前線にいたものは籠城している月山富田城に通じて入城して尼子軍に合流し、後方にいたものは大内軍の兵站補充部隊を襲って奪える兵站を奪って帰領し始めた。
これにより大内軍は退却を余儀なくされた。
退却する大内軍に尼子軍の追撃が始まる。
大打撃を受けながら大内軍は撤退して行った。
陸路を南下して安芸に向かうルート、石見街道を西に周防に帰るルート、また、海路で周防に帰るルート。
その内の石見街道ルートは佐渡軍が押えている。
が、あえて攻撃するつもりもないので、築いた砦には本間家の◯本の旗と、白旗と、十六目結の旗を交互に掲げておいた。
大内義隆の本隊は石見街道を通って行ったようだ。
山吹城に籠城している大内兵に、「大内軍が撤退していくぞ〜! 一緒に撤退するなら白旗あげて出てこいよ〜!」と呼びかけたら、素直に白旗をあげて出てきた。
殿軍を務める毛利軍が石見街道を目の前までやってきた時にはまさに這々の体で、すでに隊の形を成してなかった。
殿軍の毛利軍の後にやってきたのは地元の小笠原軍だ。
小笠原氏は大内方に加担して山吹城を一緒に攻めた後、月山富田城攻めに参戦していたが、佐渡軍の上陸をきいて城攻めの包囲から外れて居城の温湯城に帰城して、佐渡軍が自領に攻めてこないようにと守っていた。
石見小笠原氏は信濃守護の小笠原氏と同祖の名家だ。
大内と尼子の間で、隙あらば石見銀山を乗っ取ってやろうと虎視眈々と狙っている。
今回も大内軍が退却戦で佐渡軍とぶつかって、そのドサクサで何とか山吹城を手に入れられないかとやって来てみたものの、佐渡軍は砦に自軍の戦旗と白旗を交互に掲げて出てこない。
遠巻きに銀山一帯の砦を睨んでいると、そこに自ら追撃軍の指揮を執って打って出ていた尼子の当主の尼子晴久が大軍を率いてやってきた。
大内方で月山富田城を攻めていた小笠原氏は、追撃される側だ。
尼子の追撃軍が来るとすぐに、小笠原軍はまた居城の温湯城へ引き上げて行った。
そして一帯が砦化した石見銀山を見て、追撃軍を率いた尼子晴久も軍を引き上げることを決めた。
尼子軍の追撃はここまでとなり、戦後処理と論功行賞が行われた。
尼子軍は追撃戦の帰路、石見、出雲、伯耆を巡り、国人領主の服従、引き締めに奔走した。
迎撃戦のため領地の拡大はないので、大内側に寝返っていて再度寝返って尼子側に付いた領主の領地を、削ったり転封したりして再分配した。
尼子氏の勢力の回復と維持を優先させて一息つくと、尼子晴久は石見に新たにできた勢力、佐渡の本間氏と向き合うことになる。
尼子の使者が石見銀山に着いた時には、佐渡の上陸部隊は5000人は、規模はそのままにスコップ部隊として砦の警備から周辺農地の開拓、港湾事業から漁業まで、そしてもちろん鉱山労働者として活動していた。
あっと言う間に地域随一の都市がうまれていた。
河原田本間貞兼、羽茂本間高季、沢根本間賢蜜らはすでに佐渡に帰っており、代わりに雑太本間有泰と藍原蔵人秀貞が、外交要因としてやってきていた。
尼子の使者に導かれ、石見銀山と月山富田城の中間の金皇寺(安国山)に会談場が設けられ、佐渡(本間家)と尼子氏の間で、石見銀山に関する取り決めがなされた。
・石見銀山並びに鞆ヶ浦、仁満津一帯の港湾都市は自治都市とする。
・石見銀山自治都市はこの地の領主である尼子晴久に、毎年相応なる運上金を治めるものとする。
大まかに言うとこう決まった。
よし、山名を招待しよう。
これまた史実では大内義隆の跡継ぎ養子の晴持が、撤退中に船が転覆したか何かで亡くなったらしいが、ここでは何とか周防まで逃げ帰ったようだ。




