第〇〇八八話 ミリン◆少女の胸にのしかかる王家の重責
鹿車 ── キャリッジの座席でゆられながら、ミリンは胸が少し苦しくなってきた。もともとミリンは、幼いときから喘息の持病をもつ。しかし成長して体系が丸みを帯び、子孫が残せる徴を見たころには、定期的に発生した発作も出なくなっていた。そのときの苦しさなど、記憶の彼方に封印されてしまっていたが、そんな覚えすら彷彿とする胸の苦しみを、今ミリンは感じている。
「ら~」
ラーゴがミリンを見上げて、不安げに鳴き声をあげた。心配させてしまったようである。
「あ、ラーゴ、ごめんなさい。大丈夫よ。何でもないわ」
ミリンは午前中に訪問したレオルド卿邸宅で、現在王国が瀕している危機的状況を聞かされ、さらにその窮地を深く知るに至った。未来の王国にのしかかってくる幾重もの心配事に思いをはせたら、重圧につぶされそうになる。つまりこの胸の苦しさは、精神的なものから襲ってきているのだ。ここが王城内であり、しかも病であれば問題ない。手先の器用なメイドに頼んでドレスの上からでも、胸の下部を締め付けている、矯正下着の縛りを緩めてもらえるだろう。とはいえ、いざというときは影鍬がいるからと、リムルにメイドの同乗を断って不在である。それに精神的なものなら、たとえ裸になっても楽になれないに違いなかった。
(わたしは弱い。それに、たいした力もないのだわ)
そもそもミリンは、守られる立場の人間だ。
その身は近衛隊に護衛され、立ち振る舞いはリムルに教わり、兵や城、民や城壁に、ひいては国という組織全体から擁護されている。これまで身近な危険からは、常にそばにいてくれた兄、アレサンドロに守られてきた。大人の徴を迎えた十歳までは、毎夜兄に同衾して休むのが当たり前として成長してきたのだ。その兄が、今は近くにいない。
それだけの理由で、今日も自分が城外に出るといえば、どれほど護衛の人選にもめたことか。
(でも、もうわたしが自分で考え、そして強くいなければ。 ── そうよ、とくにこれからは)
ミリンに『強い』という言葉は、今まで必要なかった。美しく、元気に、明るく、華やかであれば周りは喜んでくれたからである。だれもが ── 何よりも大好きなアレサンドロが、そうあってほしいとは望んでいなかったのだ。
その代償として、常に強くなるためたゆまぬ努力を続けたアレサンドロ。彼はミリンの盾であると同時に、剣であろうと生きて現在、ミリンの隣にはいない。アレサンドロはミリンを守る鎧であり、ミリンの代わりの強さである。なによりミリンが持つことを求められなかった、不屈の精神であったのだ。
それでもいつかは、ミリンがすべての責を受け止めなければならない。魔王を退けてなお、王国には新たな危機がさざ波のごとく打ち寄せてきていた。
まず目前の問題は、国民が越冬に必要な、たんぱく源をめぐる食料難だ。しかも、それをいいことに隣国辺境伯が、政治介入の触手を伸ばす。その変態伯は自分を名指して、人身御供に差し出すよう要求していると聞いた。他方では巨人族との見解の相違から、国同士のもめごと ── 戦争になりそうな雲行きだ。そんな国内の弱体化につけ込んで、闇の組織までもが暗躍してきているのは否めない。
暗い部分から、徐々に王国民が食い物にされつつある実態が覗える。今朝、王都市街で起きた裏社会における闘争という形を、すでにこの目で見てしまった。他にも独立小国の台頭など、将来的な不安もあるようだ。何よりもミリン個人としては、最愛の兄が意識を失ったまま、復活できるかどうかもわからない。本当であればその枕辺から離れていたくないほどの状態である。
ミリン一人、たとえ母と二人で背負っても、どれ一つとして、単純かつ速やかに解決できるものは見当たらなかった。
では、だれに頼れるだろうか?
王国でもっとも頼りになる貴族は、ハーンナン公爵である。しかし貴族はだれしも、自領の領土領民を保全しなければならない。よほどの余裕でもなければ、国への支援や他領への援助を、見込めないのは当然といえる。それは公爵といっても、事情は変わらないのだ。
先ほど公爵五女グラリスの婚約祝いに伺った。ハーンナン公爵の領土も、魔王島にほぼ面しているに等しいアビ侯爵領同様、魔族の王都侵攻ルートとなったのだ。そのため、魔王軍による被害は、国王領とたいして差異はない。ましてや離散村落の問題は大王都よりも傷が深く、山賊化して山村部における治安悪化が深刻だとも漏らした。
ちなみに先妻を、病気で亡くした公爵は、以来正妻をもたず、多くの娘たちを立派に育ててきている。およそ二年前、縁故の貴族が亡くなった葬儀において、後継者の息子から身よりのない非嫡出娘の世話を頼まれた。こうして後宮に入れたのが、先代貴族故人の遺児となる女だ。その若い愛妾アーニャが、まるで正妻のように重用される姿を見るにつけ、クリムたち娘はおおいに不満を抱いているという。彼女を紹介した貴族は、地領に国際マフィアが深く入り込んでしまったかも知れないと、レオルド卿から怪しまれる人物だ。今日話してみた限り公爵の愛妾になったアーニャの言動も、いささかあやしかったと断ぜざるを得ない。
「アーニャと言いましたか、公爵の第三夫人は。 ── ラーゴはどう思いますか?」
お気に入りのペットを撫でながら、独り言のつもりで洩らすミリン。
「しかしミリアンルーン殿下、どうしても娘に言わせると、年齢の近い後妻というのは評判が悪いものです」
訳知り顔でキャリッジの中、向かい合った座席から苦言を呈するのは、ヨセルハイという。結局マーガレッタの出城の許可が下りず、ゴードフロイの教会軍より選抜された、第一部隊を預かる司令官で腕利きである。だが、ゴードフロイやマーガレッタといった超人レベルではない。アレサンドロと戦って一勝一引き分け程度であり、兄の言からいうと、ヨセルハイのほうが少し戦術に長ける、程度の違いだそうだ。
剣の才には恵まれず、やや直情的ながら才に優れた兄には、宰相として学問に励むべきとの声が高かった。だが彼は剣をとる。妹を、 ── すなわち王国の希望を守るために。いかなる困難にもくじけない、不屈の精神力で鍛錬を続け、次期王の盾となる努力を重ねたのだ。そんな兄の口からなら、もう少しミリンの気持ちをくんだ助言がもらえただろう。
(あなたの意見は聴いていない。ああ、ラーゴがお話してくれればいいのに)
ラーゴが見つめてくる眼を覗き込むだけで、ミリンが言葉に発した内容だけでなく、自分の心までも理解されるような気がした。
もちろん自分に対して何も反論しないペットに、己が気持ちを一番わかってもらえるなんていうのは、身勝手な思い込み。そんなことを知らないわけではないものの、偏愛するペットが本当に自分も愛してくれたら、どんなに素晴らしいかと想像する。そうした考えを、ミリンはまだまだお子様だと戒めた。
そしてミリンは今更のように、公爵の邸でのやりとりを思い起こす。
あの愛妾は、王都の治安悪化 ── シンジケートの暗躍について言及したが、その話をはぐらかした。いや、はぐらかしたのではなく、ある意味、正当化しようとしたのだ。
『貧しいものは賭けごとにおぼれ、酒に走り、それでも救われなくて、危険な薬にまで手を出すのではないのでしょうか?』
それは、いかに彼女が辛い日陰を生きてきたからと言っても、決して国民を麻薬漬けにしてよいいいわけにはならないのだ。
公爵邸宅などがあるヴィンテージエリアから王城までは、三つの掘を越えて行かなければならない。王城を護る外堀、中堀、内堀の中で、中堀は長堀とも言われ、もっとも外敵の足止めに効果を発揮するかなめだ。堀幅が広く、いざというときに落としやすい橋がかけられ、掘には大量の水を流し続けることができる、仕掛けさえ準備されていた。
王族の行幸であれば、必ず利用されるはずの中堀にかかるもっとも安全な橋へまもなく着こうとしたとき、問題が起きる。
それは最近よく聞く、年末らしい喧嘩が橋の上で勃発し、かなりの人だかりになっているという報告だ。こうした騒ぎも四年に一度の、正月を迎える王国における風物詩であると、レオルド卿から聞かされたことがあったと思い出した。
「そんなところに、水を差してもいけません。回り道は可能ですね」
殿下が通行する道だと警告した後も、以前喧嘩が続けられているようなら、衛士は彼らを逮捕しなければならない。たあいもないことで拘留、あるいは処罰されるのは忍びないと感じる。それは今回、予告無しのお忍びでもあり、出かけた理由も自分のわがままが大きいという引け目があるからだ。市民の排除をミリンが拒否すると行列は迂回して、もっとも近い路地から狭い橋を行くコースへ、仕方なく道を変える。
橋ギリギリまでびっしりと小さい家が立ち並ぶ路地を抜けるのは、短い時間といえども神経を使う護衛兵士。それが未体験の道、初めての護衛対象であればなおさらだ。
ようやく、堀を渡る橋のたもとまでたどりついたとき、心理的には油断が生じやすいのも自然の摂理である。それは視線の抜けない路地という危険な場所を通り過ぎ、堀にかかる橋のような、見通しのよいところに出た安心感からだ。
部隊はセオリー通り、細くならざるを得ないときには最前に斥候、次に主力、一般兵士を配して護衛対象が進む。そして最後にしんがりの部隊が続いた。橋は幅こそ狭いものの、堀幅は渡り切るまでに一分以上を要する。いざ、護衛対象であるミリンのキャリッジを橋に渡そうとしたとき、地響きが起こって堀に鉄砲水が巻き起こった。続いて橋が大きく傾いたと思うと崩れ落ち、主力最後部と一般兵士が飲み込まれたのだ。




