エピローグ
そして──
遠く遠くの世界へとたどりついた三人の女は。
『帰らずのアリスたち』となった。
-1人目のアリス-
「今日は、ここにじっと座っていておくれ」
アディマに言われて、景子は恥ずかしくなった。
豪奢な荷馬車の中。
ここは、本当の荷馬車の中かと目を疑うほど、広く美しくしつらえられたそこから、景子はアディマと共に外を見るのだ。
作物の刈り取りの済んだ外畑。
その、少しさみしい畑の周囲に、役人が立っている。
更にそれを取り囲むように、遠巻きに農夫や町民が見ている。
景子の結婚の前から動いていた灌漑事業が、外畑を囲み終わったのだ。
元々、地下水や川などで水には困らない都だ。
水路を作るのに、適している地形だった。
一足先に完成させ、これから収穫量の違いを明らかにしていくのである。
「これより、開門致します」
農林府の府長が、彼らの荷馬車の側に近づいてきてアディマに報告する。
それに彼が頷くと、府長はさっと手を上げた。
「開門!」
大きな大きな声が、響き渡る。
水が水路を走り始め、それぞれの畑へと流れ込んでいく。
「おおっ」
その声は、驚きの声だ。
いままで、畑の中を水びたしにするなどという考えは、彼らにはなかった。
その常識が覆された、ただの驚きの声。
だが、これからは違う。
確実に実りが増えると分かれば、彼らは水を入れる行事が来る度に、微笑むことになるだろう。
「水の上を風が渡って……涼しいな」
アディマは、敏感に風の匂いを感じたように目を細めた。
景子は、懐かしい匂いに目を伏せた。
初夏の気温の中、広い水の上を風が吹き抜ける。
瞼の裏に、水田の景色が広がった。
祖母を、思い出す。
花屋はやりとげられなかった景子だったが、遠い遠い異国の地で、ひとつ大きなことをやり遂げることが出来た。
人も植物も、全ての生死をこの目は見る。
作物が実っては刈られるように、人もまた時期が来たら死んで、そして新しい命が生まれるのだ。
その命の流れを、ほんの少しだけ垣間見ることの出来る自分を、景子は嫌いではなくなった。
次の実りは、もっともっと良いものでありますように。
景子は、お天道様に手を合わせた。
-2人目のアリス-
「桃、いらっしゃい」
内畑の脇を這う娘を、梅が呼ぶ。
ゆっくりゆっくり這うものだから、しびれを切らしたエンチェルクが抱き上げてしまう。
彼女は、誰よりも桃を甘やかす罪を犯している。
栗毛で色白な娘は、菊の門下生たちのアイドルでもあった。
シェローなどは、将来は桃を嫁にもらうのだと意気込んでいるほど。
そんな娘を、楽しげに描く絵描きがいる。
どうやら、絵のモチーフとしても気に入られているようだ。
時々歌いに来る獅子にも、いつも愛しげに抱き上げられている。
自分を、お姫様か何かだと勘違いしないか、いまから梅は心配していた。
そんな、のどかな内畑の側の家。
「手紙、預かってきたよ」
道場主が、戻ってくる。
夫の家と行ったり来たりの生活をしているが、昔と何ら変わりない梅の姉妹だ。
いや、少し変わったか。
髪が、少し艶やかになった気がする。
表情も、少し柔らかくなった気もする。
彼女は、女でありながら、女には大変な仕事をしてきた。
そんな中でも、彼女はまっすぐであろうとした。
しなやかでもあったが、そのしなやかさがより深まったように思えるのだ。
それもこれも、あの無口で大きな義兄弟のおかげだろうか。
そんな菊から、渡された手紙は──二通。
飛脚は、人々が情報に飢えていたことを表すかのように順調だった。
手紙以外に、各地の情報や、行商人が数少なくしか運べなかった本類まで、沢山の荷が動くようになっている。
寺子屋制度のおかげで、本の需要が全国で高まっているのだ。
これから、印刷業界も花盛りになってゆくことだろう。
手紙の一通は、イエンタラスー夫人からだった。
自分の子のように梅を思ってくれる、愛情深い人だ。
梅が、一生足を向けて眠れない相手。
もう一通は。
「桃……」
エンチェルクの腕の中で、じたばたと暴れている娘を呼んだ。
「いらっしゃい、一緒にととさまからのお手紙を読みましょう」
梅は、小さい身体を抱き上げ──家へと戻って行った。
-3人目のアリス-
「そうだな、海が見てみたいかな」
大陸がとても広すぎて、菊は海を見ていなかった。
ダイに、『何かしたいことでもあるのか?』と問われた答えだ。
「海は、いま少し……悪いな」
だが、彼は表情を曇らせながら、菊の望みにも雲をかける。
「何だ、外国船でも来てるのか?」
彼女の頭の中には、ペリーの黒船がどかーんと浮かんでいた。
「……」
冗談のつもりだったのに。
ダイは、否定もせずに黙り込んでしまう。
まさか、図星だったとは。
「そうか、外国船が来ているのか」
だが。
その情報は、菊を喜ばせるだけだった。
これこそ、海の醍醐味だ。
その良し悪しは別として、他国との玄関口になる海。
この国も、極地以外はイデアメリトスの支配地となっていて、異国に触れるには海しかない。
目を輝かせてしまった菊に、ダイは頭が痛そうだった。
「東? 西?」
船が来ている海がどっちなのか、夫に聞く。
「……」
彼は答えず、ただじっと菊を見る。
行かせたくないのだろう。
「じゃあ、東に行ってみるかな」
「駄目だ」
即答だった──船は、東に来ていると答えているも同然だった。
「ダイ……」
真面目で愚直な、愛すべき彼女の夫。
頑丈で腕も立ち、命の心配だけはいらない素晴らしい男。
「ちょっと行ってくるよ」
そんな男だからこそ。
菊は、後顧の憂いもなく旅立てるのだ。
「キク……」
ため息をつきながらも、名前を呼ばれることを幸せだと思うのは──きっと菊だけ。
終




