若旦那の受難
霧乃湯には、若旦那がいた。
女将の息子で、名を、宗一郎という。二十八歳。生真面目で、気の弱い、線の細い男だった。傾いた旅館を、なんとか立て直そうと、経理やら仕入れやらで、いつも眉間に皺を寄せている。俺から見れば、頼りないが、悪い奴じゃない。
その宗一郎が、いつからか、俺を、避けるようになった。
いや、避けている、というより、俺の前で、挙動不審になる。目を合わせない。声が上ずる。俺が近づくと、書類を落とす。明らかに、様子が、おかしい。
俺は、心配した。
「おい、若旦那。あんた、最近、変だぞ。具合でも悪いのか。ちゃんと寝てんのか。栄養、摂ってんのか」
俺は、世話焼きのおっさんの本能で、宗一郎に、ぐいぐい、詰め寄った。至近距離で、顔を覗き込む。当然、豊かな胸が、宗一郎の腕に、ぐいと押しつけられる形になる。
宗一郎は、耳まで真っ赤になって、燃え尽きたように、固まった。
「こ、こまちさん、ち、近いですっ……!」
「あ? 具合悪いんだろ。ちゃんと見てやってんだよ。顔色、悪いぞ。ほら、こっち向け」
俺は、宗一郎の顎を、がしっと掴んで、無理やり、こっちを向かせた。逃げ場を失った宗一郎は、俺の顔と、その下の、はだけた胸元を、至近距離で、直視する羽目になった。
「うわああっ、す、すみませんっ!」
宗一郎は、悲鳴を上げて、逃げていった。俺は、その背中を見て、ため息をついた。
「……あいつ、大丈夫か。相当、参ってるな。旅館の経営、そんなに苦しいのか。かわいそうに」
俺は、宗一郎が、経営苦で、精神的に追い詰められている、と結論づけた。実際には、俺に、完全に、惚れているだけなのだが。その可能性は、俺の頭には、一ミリも、浮かばなかった。中身はおっさんだ。若い男に惚れられるなんて、想像の埒外だった。
その夜、俺は、宗一郎を、元気づけようと思った。差し入れに、酒と、つまみを持って、彼の部屋を、訪ねた。
「若旦那。飲もうぜ。たまには、パーッとやれば、気も晴れる」
湯上がりの、薄い浴衣一枚。俺は、宗一郎の部屋に、どかっと上がり込んで、酌をしてやった。密室で、二人きり。上気した肌。はだけた胸元。宗一郎は、生きた心地が、しなかっただろう。
だが俺は、ただ、経営に悩む若者を、励ましているつもりだった。
「あんたも、大変だな。だが、旅館は、最近、客が増えてるだろ。悪いことばかりじゃねえ。な、元気出せよ」
俺は、宗一郎の肩を、ばんばん叩いた。おっさんの励まし方で。宗一郎は、俺の励ましの言葉なんて、半分も、聞いていなかった。ただ、目の前の、色気の暴力に、耐えるのに、必死だった。
「はい……ありがとう、ございます……」
消え入りそうな声で、そう言うのが、精一杯だった。俺は、それを「元気が出てきた」と、勝手に、満足した。
俺の、渾身の「励まし」は。宗一郎の心臓に、その夜、多大なる、ダメージを、与えたのだった。




