混浴の攻防
霧乃湯には、山を望む、立派な露天風呂があった。だが、時間帯によっては、混浴になる。潰れかけで、人手がないから、清掃も、俺の仕事だった。
その朝、俺は「清掃中」の札を出して、露天の掃除をしていた。浴衣の裾を、たくし上げ、袖をまくって、ごしごしと床を磨く。健康的な太ももと、二の腕が、朝日に晒される。掃除に夢中で、俺は、そんなことは、気にもしていない。
問題は、一人の客が、その札を見落として、入ってきたことだった。
中年の、恰幅のいい男。タオル一枚を巻いて、露天に、のっそり現れた。そして――床を磨くために、四つん這いになって、尻を突き出した姿勢の俺と、目が、合った。
時間が、止まった。
男の顔が、みるみる、赤くなる。目が、泳ぐ。口が、金魚のように、開いたり閉じたりした。
俺は、その男を見て、こう言った。
「あ? なんだ、客か。今、清掃中だ。札、見なかったのか。……まあいい。そこ、まだ拭いてねえから、そっち行っとけ。邪魔だ」
俺は、掃除の邪魔だ、としか思っていなかった。四つん這いのまま、あごで、隅を示す。その動作で、たくし上げた浴衣が、さらに、際どいことになる。男は、鼻血を噴きそうな顔で、後ずさった。
「し、失礼しましたっ!」
男は、脱兎のごとく、逃げていった。俺は、その背中を見送って、首をひねった。
「なんだ、あいつ。せっかく来たのに、風呂入らねえのか。変な客だな」
俺は、また、床を磨き始めた。掃除の続きだ。
だが――その日から、霧乃湯の露天風呂は、妙に、混雑するようになった。特に、俺が清掃をする、朝の時間帯に。「清掃中」の札が出ているにもかかわらず、なぜか、男の客が、次々と「うっかり」入ってこようとする。
女将が、慌てて、清掃時間を変更しようとした。だが俺は、言った。
「ん? 別に、いいだろ。客が入りたきゃ、入らせりゃ。俺は、掃除、続けるだけだ。邪魔にならなきゃ、それでいい」
その、あまりに無防備な一言が。男性客の間で「霧乃湯の朝風呂は、天国」という、とんでもない噂を、生むことになる。俺は、相変わらず、その噂の存在すら、知らなかった。




