第9話 工房の日々
季節が二つ変わった。台所に立ち、工房を手伝う日々のなかで——。第8話の続きです。
季節が、二つ変わり、
高槻に来たのは涼しくなりはじめた頃で、それから冬が過ぎて、窓の外の空気がまた少しずつぬるくなってきていた。
いつからか、私は台所に立つようになっていた。最初は里江に「ええよ、亜希子は座っとき」と言われていた。それが、いつのまにか言われなくなった。言われなくなったことが、たぶん、いちばんの変化だった。
呼び方も、変わっていた。最初は、どう呼べばいいのかわからなくて、二人とも、ちゃんと呼べずにいた。それが、いつからか------里江を「里江姉ちゃん」、宗一郎を「宗兄ちゃん」と呼ぶようになっていた。叔母と叔父なのに。自分でも、いつからそう呼び始めたのか、思い出せなかった。たぶん、思い出せないくらい自然に、そうなったのだと思う。
その夜、宗兄ちゃんは工房に残っていた。染め上がりの加減を見るとかで、夕飯の後にまた出ていった。台所には、里江姉ちゃんと私の二人だけだった。
里江姉ちゃんが皿を洗い、私が横ですすいで、布で拭いた。水の音と、皿の触れ合う音だけが続いた。手を動かしていると、ふだんは聞けないことが、なぜか聞けるような気がした。
「里江姉ちゃん」
「ん?」
「宗兄ちゃんって、昔、別の仕事してたの?」
里江姉ちゃんの手が、一瞬だけ止まって、また動き出した。
工房には、染め物とは関係のない古い本が、何冊も置いてあった。難しそうな専門書だった。それに宗兄ちゃんは、ときどき、機械のことを妙に詳しく話した。染め物職人が、どうしてそんなことを知っているのか------前から、少し、不思議だった。
「エンジニアやったんよ、あの子」里江姉ちゃんは皿を洗いながら言った。「ロボットとか、AIとか。そういう難しい機械を作る仕事や。けっこう、すごい人やったらしいで。私はようわからんけど、その世界では名前の知れた人やったみたいやで?」
すごい人。その言葉と、染料で汚れた作業着の宗兄ちゃんが、うまく結びつかなかった。
「なんで、辞めたの?」
里江姉ちゃんは、洗い終えた皿を私に渡した。私はそれを受け取って、すすいだ。
「あるとき、あの子の作る機械か何かをな、なんや軍事利用したいんやーっていう話が来たんやて」里江姉ちゃんの声は、淡々としていた。「あの子な、それ、断ったんよ。何回来ても、断った。------そしたら、だんだん仕事が来んようになって。最後は、その世界におられんようになってしもた」
水の音が、続いていた。
「それで、そっちのエンジニア仕事辞めて、おじいちゃんの------宗兄ちゃんのお父さんの染め物を継いだんよ。ここの工房は、もとはお父さんのや」
私は、皿を拭く手を、止めていた。
「......断らなかったら、どうなってたの?」
「さあな」里江姉ちゃんは少し笑った。「お金には、困らんかったやろうな。今みたいに、団地で染め物して、家追い出された姪っ子にこうやってご飯食べさせて------そういう暮らしには、なってへんかったやろかなぁ...」
それから里江姉ちゃんは、少しだけ、声の調子を変えた。
「あんな、亜希子。私はあの子の姉やから言うけどな。------あの子は、ほんまに要領が悪いねん」
「要領?」
「もうちょっと、上手いことやれたはずやねん。断るにしても、角の立たんやり方があったやろうし、業界に残る道かて、探せばあったかもしれん。でも、あの子にはそれができひんかった。まっすぐ断って、まっすぐ干されて、まっすぐここまで来たわ」
里江姉ちゃんは、最後の皿を洗い終えて、蛇口を閉めた。水の音が消えた。
「賢いんか、アホなんか、私にもようわからん。------ただ、あの子は、そういう子やねん」
私は、その話を、まだ半分も理解できていなかった。
「断る」ということが、人の一生を、こんなふうに変えてしまう。それが、その時の私には、まだ遠い話だった。断れば干される。干されれば、生きる場所が変わる。頭ではわかっても、体ではわからなかった。
ただ、皿を拭く手のなかに、何かが残った。うまく言葉にできない、重さのようなものが。
宗兄ちゃんは、このことを、自分から私に話したことは、一度もなかった。工房でも、食卓でも、団地のどこでも。私が知ったのは、いつも、里江姉ちゃんの口からだった。
宗兄ちゃんは、自分のことを、語らない人だった。
(第10話へ続く)
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