第8話 高槻・団地
二〇六〇年、高槻市登町。十四歳の亜希子の、新しい生活が始まる——。第三章の始まりです。
団地は、五階建ての古い建物だった。
エレベーターはあったけれど、里江は「三階くらい歩こ」と言って階段をのぼった。私もキャリーケースを持ち上げて、後をついていった。車輪の固いキャリーケースは、階段では音を立てなかった。
部屋に着いて、荷物を玄関に置いた。狭い部屋だった。でも、片付いていた。窓際に、見たことのない布が何枚も干してあった。赤や、青や、よくわからない中間の色。「宗の仕事や」と里江が言った。
夕方、宗一郎が帰ってきた。
玄関で「ただいま」と言う声がして、それから少し間があって、宗一郎が顔を出した。痩せた人だった。作業着のあちこちに、染料らしい色がしみついていた。私を見て、宗一郎は何か言おうとして------結局、「おう」とだけ言った。
たこ焼き屋で里江が言っていた「不器用で、曲げられない人」というのが、その「おう」のなかに、全部入っているような気がした。
「ごはんできてるで」と里江が台所から言った。
お鍋だ。すきやきだった。
食卓の真ん中に、鉄の鍋が置かれていた。里江がコンロに火を入れると、割り下の匂いが立った。甘くて、濃い匂いだった。
「たこ焼き食べたのに、、、」と私は言った。昼間のたこ焼きが、まだお腹に残っている気がした。
「あんなもん“おやつ”や」里江は笑った。「夜はちゃんと食べなあかん。------これな、宗の誕生日とか、ええことあった時しか作らへんねん」
それだけ言って、里江は肉を鍋に入れた。じゅう、と音がした。
私は、その言葉の意味を、少し遅れて考えた。今日は宗一郎の誕生日ではない。だとしたら------里江にとって、今日は「ええことあった時」なのだ。私が来た日が。
何と言えばいいのか、わからなかった。
「卵、溶いて、くぐらせて食べり」里江が小鉢を差し出した。「熱いから気をつけや」
言われたとおりにした。湯気の立つ肉を、卵にくぐらせた。鍋を三人で囲んでいた。鉄の鍋のまわりに、三人ぶんの席があった。湯気が、顔に当たって、温かかった。
一口、食べた。
「......おいしい」
自分で言うつもりはなかった。声が、勝手に出ていた。
警察署からずっと、新幹線でも、たこ焼き屋でも、私はどこか体を固くしていた。固くしていることに、気づいてもいなかった。その固さが、温かいものを一口飲み込んだだけで、ふっと、ほどけた。
宗一郎は、私の方を見て、「そやろ」とだけ言った。それ以上は何も言わずに、また鍋に箸をのばした。里江は、ただ笑っていた。「おいしい」に、誰も大げさには反応しなかった。
大げさに反応されなかったことが------なぜか、いちばん、ありがたかった。
温かい食事を、誰かと囲んで食べたのは、いつ以来だろう。
千葉の家でも、ごはんはあった。母はちゃんと作っていた。でも父は深夜まで帰らず、兄は兄で、私は私で、食卓に座る時間がいつも少しずつずれていた。同じ家で、同じものを、別々の時間に食べていた。
鍋は、そういう食べ方ができない。火を囲んで、同じ鍋から、同じ時間に食べる。逃げ場のない食べ方だ。
その逃げ場のなさが、その夜は、少しも、嫌ではなかった。
(第9話へ続く)
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