第7話 新幹線・高槻
眠れないまま夜が明けた。十四歳の亜希子は、高槻へ向かう——。
── 翌朝 ──
翌週月曜日の朝、母が起こしに来た。「そろそろ支度して」と言った。それだけだった。荷物をまとめた。母が書類をいくつか持ってきた。それらを受け取る。
家を出る時、政志が部屋から出てこなかった。私は特に声をかけなかった。彼も声をかけなかった。それでよかった。私たちはそういう兄妹だったのだ。
家を出て、一瞬だけ振り返って自宅を見たが、何も感じなかった。
千葉から東京駅まで在来線で出て、駅の構内を歩いていた。長い通路の途中で、リニアの改札が見えた。光のラインで縁取られた、新しい改札だ。スーツの大人たちが、当たり前のように吸い込まれていく。新大阪まで一時間かからない。私は知識として、それを知っていた。
私たちは、その手前で右に折れた。新幹線の改札へ。母が一度だけ、リニアの方を見た。それから何も言わずに、私のチケットを渡した。新大阪まで二時間十五分ほど。十四歳の私は、それを不公平だとは思わなかった。それが、「普通」だったから。
大きな荷物は、昨日のうちに千葉から高槻へ発送済みだった。母が手続きをしてくれた。それ以外の、すぐに必要なものだけを手で持っていく。ショルダーバッグと、小さめのキャリーケース。それが私の「今の全部」だった。
キャリーケースは、母の古いものだった。使い古されていて、車輪が少し固い。引きずると少しだけ音がする。でも壊れてはいない。それで十分だった。
新幹線は混んでおらず、車両全体に、数人しかいなかった。静かだった。新幹線の低い振動音だけが、ずっと続いていた。その振動は──警察署のトントンという指の音とは違った。規則的だが、圧力がない。ただ、進んでいる。前に。
前に進んでいる。後ろには千葉が遠ざかっていく。前には高槻が近づいてくる。この乗り物の中では、私は「どこかへ向かっている人間」だ。どこから来たかも、どこへ行くかも、隣の誰も知らない。名前も、年齢も、昨夜何があったかも──誰も知らない。
匿名の移動。それが、妙に──自由だった。
景色が流れていく。東京の都市部を抜けて、次第に視界が開けてくる。川がある。田んぼがある。空が広くなる。
富士山が見えた。雲の上に、白い頂が見えた。初めて見た、と思った。千葉で育って、新幹線に乗ったのも初めてで、富士山を見たのも初めてだった。それはただの山で、ただの雪だったけれど──ああ、こんなに大きいのか、と思った。この国に、こんなに大きいものがある。私はそれを知らなかった。
手首の端末が、また粗いホログラムを投影しようとして、うまく出なかった。郊外の電波の薄いところでは、こうなる。リニアの車内は中央回線で常時鮮明らしい、と誰かが言っていた気がする。
里江からのメッセージが、輪郭のぼやけた文字で、かろうじて読めた。
「着いたら電話して。駅まで迎えに行くから」
それから少し間があって、もう一件届いた。「宗が、楽しみにしてるって」
宗──宗一郎、か。叔父の名前だ。顔も、声も、覚えていない。でも──楽しみにしている。私が来ることを。誰かが、私が来ることを楽しみにしている。ラベルではなく──名前で待たれている感覚に新鮮さを感じた。
── 高槻・駅 ──
新大阪に着いて、在来線に乗り換えた。キャリーケースを引きずりながら、ショルダーバッグを肩にかけながら、ホームを歩く。改札を通る時、手首の端末が、ふっと鮮明になった。輪郭が、初めてくっきりと立ち上がった。「JR高槻駅/接続良好」の文字が、はっきり読めた。郊外を抜けて、中央回線のエリアに入ったらしい。粗かった景色が、急に解像度を上げた。世界には、こういう線が引かれている──そう、今夜知った。高槻は、大阪と京都の間にある駅だ。小さな駅だった。改札を出ると──
里江が、いた。五十代くらいの女性。背が低くて、少し丸い。白い割烹着みたいなものを羽織っていた。手に、コンビニの袋を持っていた。
目が合った。「亜希子!」と里江は言って──笑った。それから私のキャリーケースに目をやって、「それだけ? 荷物、ちゃんと送ってもらえたんか?」と聞いた。「はい、発送済みです」と答えた。「ほうか、ほな明日か明後日には届くなぁ」と里江は言って、当たり前のことのように頷いた。その笑顔が、なんというか──温かかった。計算のない、ただの笑顔だった。昨夜の女性警官の笑顔とは、全然違う種類の笑顔だった。
私は何も言えなかった。
「お腹すいてへんか? 駅前においしいたこ焼き屋さんあるで」
関西弁だった。私が聞き慣れていない関西弁だった。でも──聞いていて、疲れない言葉だった。難しいことを何も言わなかった。「大変だったね」も「心配したよ」も「これからどうするの」も言わなかった。ただ「お腹すいてへんか?」と言った。
その瞬間──お腹が、鳴った。昨夜から何も食べていなかった。警察署で、新幹線で、ずっと食べていなかった。気にする余裕もなかった。でも今、里江の「お腹すいてへんか?」という言葉を聞いた瞬間、体が正直に反応した。盛大に、鳴った。
「食べます」と私は言った。
「食べます、って(笑) あんた、敬語やのーてええんやで」
「あ、はい」
「また(笑) まあボチボチなれるかな。ほらここのたこ焼き味ええんやでぇ?」
里江が笑いながら歩き始めた。私はその後を歩いた。
たこ焼きを食べながら、里江が「宗はなあ、今工房で作業してて、夕方には帰ってくるから」と言った。「楽しみにしてるって。珍しく張り切っとったわ」と笑った。
「宗一郎おじさんって、どんな人なんですか?」
里江は少し目を丸くして、それから吹き出した。
「あんた、宗一郎の事、おじさん言うたらあの子怒るで? お兄さん言うときや(笑)」
私は少し面食らった。
「......お兄さん?」
「そうそう。あの子そういうとこ、妙にこだわるねん(笑) まあええわ、あの子はそうやなぁ......不器用で、曲げられへん人間やな」
里江は少し遠い目をして、それからまた笑った。
「まっすぐすぎて、損することも多いんやけど──まあ、それがあの子らしいか、思て。まぁ、基本的には穏やかな人間やと思うわ。」
「不器用で、曲げられない」──その表現が、なぜか頭に残った。不器用で、曲がれない人間が、この世の中を生きていくのは──たぶん、簡単じゃない。でも。そういう人間が、どこかにいる。高槻に、いる。
それが、高槻での最初の笑いだった。何年ぶりかも、覚えていない。
あの朝の私は、知らなかった。
新幹線の窓から見えた空が──やがて宇宙まで続いていることを。
(第二章 完)
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