第6話 千葉の夜
「ここで居ったらアカンのよ」——母の静かな言葉のあと。
静かだった。怒鳴られた方が、まだよかった。怒鳴られれば、反発できる。でも──静かに、疲れた声で言われると、返す言葉がない。この人は私を傷つけようとしているわけじゃない。ただ、もう力が残っていない。それだけだ。
「ここで居ったらアカン」──「ここ」とはどこか。この部屋か。この千葉か。それとも──この家か。この状況か。たぶん全部だ。
私は「ここ」の全てに、居場所がない。それは誰かのせいでも、私のせいでもない。ただ、そうなってしまっている。
受け入れた。受け入れた瞬間に、ほんの少しだけ、軽くなった気がした。
私は何も言えなかった。喉の奥で何かが固まって、声にならなかった。だから私はただ、頷いた。一度だけ。
母は、それを確認して、また歩き始めた。私は少し遅れて、その後を歩いた。
泣かなかった。泣かないと、決めたわけじゃない。ただ──泣き方を、忘れていた。いつから忘れたのか、覚えていない。もしかしたら──最初から、知らなかったのかもしれない。
警察署の外は、夜だった。十一月の千葉の夜は、冷たくて、乾いていた。駐車場の照明が白く地面を照らしている。母は振り返らずに言った。「亜希子、早よ来て」
私は何も言わずに、歩き始めた。空から目を下ろして。
空を見上げた。星が、少し見えた。都市の明かりに薄められて、ぼんやりと。それでも確かに、そこにあった。
名前のわからない星ばかりだった。理科の授業で習ったはずなのに、私はほとんど覚えていなかった。ただ──そこにある、ということだけは知っていた。私が見ているこの光は、何光年も前に出発した光だ。今この瞬間、その星がまだ存在しているかどうかも、わからない。届いた光を見ているだけだ。
光が、届く。それだけのことが──なぜか今夜は、大事なことのような気がした。
届く。どこかから、ここまで。何光年もの距離を越えて。誰も頼んでいないのに、ただ届く。そこに意図はなかったかもしれないし、あったかもしれない。でも──届いている。確かに、届いている。
私は、この光を受け取っている。受け取ることは──できる。
手首の端末が、また光った。投影しようとして、うまく出ない。ホログラムが粗くて、輪郭がぼやけて、何の通知かも読めない。指で一度叩くと、消えた。
里江さん、か。叔母の顔を、私はほとんど覚えていなかった。子供の頃に会ったきりだ。確か、大阪の高槻に住んでいる。染め物をしている人たちだと聞いた。叔父さんも一緒に。
高槻。名前だけは、知っていた。
知らないことが、まだたくさんある。
その事実が、なぜか少し──ほんの少しだけ──軽かった。私は、この先のことを何も知らなかった。高槻がどんな場所か。里江がどんな人か。宗一郎が──叔父が──どんな人か。染め物という仕事がどんなものか。そこで自分が何をするのか。何も知らなかった。
知らないことは、怖いことだ。でも──知っていることの中に、もう居場所がないとしたら。知らない場所に行くしか、ない。
そうやって、私は初めて──「高槻に行く」ことを、「送られる」から「行く」に変えた。頭の中で、ほんの少しだけ。誰にも言わずに。でも確かに。
駐車場に停めてある古い国産の軽自動車の助手席に乗り込んだ。車内は静かだった。ラジオをつけなかった。母は前を見たまま、何も言わなかった。私も何も言わなかった。
家に帰った。ベッドに横になった。天井を見た。眠れなかった。眠れないまま、夜が明けた。
(第7話へ続く)
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