第5話 千葉・警察署(2)
深夜の警察署。足音の主は、母だった——。
渡海真知子は、私が記憶しているよりも少し老けて見えた。いや、老けたというより──削れていた。何かに少しずつ削られて、薄くなっていくような。
三十九歳のはずだ。でも目の下に影があって、髪の毛が少し乱れていた。夜中に起こされて、急いで来たのだろう。コートを羽織っただけで、下はパジャマの上に何かを重ねたような格好だった。
目が合った。一秒か、二秒か。母は先に視線を外した。女性警官に頭を下げて、「ご迷惑おかけしまして」と言った。声は丁寧だった。関西弁が少しだけ滲んでいた。疲れると出るのだ、昔から。
私はその「ご迷惑おかけしまして」という言葉を聞いて──何かが、胸の中でぐっと固まった。
怒ってくれた方がよかった、と思った。「何やってるの」でも「心配したんだから」でも──何か、私に向かった言葉があればよかった。でも母は──警察官に謝っていた。私にではなく、警察官に。まるで、私が「謝罪が必要な存在」として、最初から設定されているように。
母が悪い人だとは思わない。疲れているだけだ。政志の件で、ずっと疲れている。一人で二人の子供を育てて、ずっと疲れている。私はその疲れを知っている。でも──この「ご迷惑おかけしまして」という言葉は、やはり胸に刺さった。
母が女性警官と何か話している。「この子はいつもこうで」「家でもなかなか」「兄の方も手がかかって」──そういう声が、断片的に聞こえてきた。私のことを、他人に話している。私がそこにいるのに、まるで私がいないみたいに。
「この子はいつもこうで」。
いつも、とはいつからだろう。
私が「いつもこう」になったのは、いつからだろう。
母が「ありがとうございました」と言った。警察官にお礼を言っている。謝って、お礼を言って、なるべく目立たないようにして、やり過ごす。それがこの社会の中で生き残る方法として、この人の中に染み込んでいる。私はそれを見ていた。批判していたわけじゃない。ただ──見ていた。この人が選んでいる方法を。私はこの方法を、選びたくない。でも今はまだ、別の方法を知らない。
廊下に出た。LEDの白い光が、廊下にも続いている。どこまでも続いているような気がした。
警察署の廊下は、事情聴取室よりさらに白かった。手続きが終わって、私たちは並んで歩いた。並んで、というより──同じ方向に、少し距離を置いて、歩いた。母の横顔を見た。唇が一度、動いて、止まった。また動いた。何かを言おうとして、やめて、また言おうとしている。
この人は──怒るより先に、疲れている。そういう人だ。
出口の手前で、母が立ち止まった。
「......亜希子」
「何」
「あんた、里江さんの所行かせるから」
私は足を止めた。
「はぁ!? なんで!?」
声が、思ったより大きく出た。廊下に響いた。通りかかった警察官が一瞬こちらを見て、また視線を外した。
「意味わかんないッ!?」
「学校と担任の先生にも連絡してるから」母は続けた。前を向いたまま、私の顔を見なかった。「政志で手に負えへんのよ、もう......あんたまでこんな......限界なんよ。ママは」
マサシ──兄の政志。二つ上の兄。私とは違う種類の「問題」を抱えていた。詳しくは知らない。でも、うちの中がずっとそっちに向いていたのは知っていた。母の神経は、ずっと政志の方に引っ張られていた。
父は──いる。同じ家に住んでいる。ただ、深夜帰宅が当たり前で、ほとんど顔を見ない。朝、起きた時にはもういない。夜、寝る時にはまだ帰っていない。たまに週末に会うことがあっても、話すことが見つからない。嫌いじゃない。ただ──遠い。同じ家の中で、遠い。「いない」みたいにいる人、というのが正確だ。
私は、空白の方に育った。それが「放置」だったのか「自由」だったのかは、今でもわからない。ただ──空白の中で育つと、自分で考える習慣が身につく。誰も教えてくれないから、自分で考えるしかない。それが私の、唯一の財産だった。
母の声が、少し震えた。
「......あんたは、ここで居ったらアカンのよ」
(第6話へ続く)
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