第4話 千葉・警察署(1)
物語は十五年前へ。二〇六〇年、十四歳の渡海亜希子は、深夜の警察署にいた——。第二章の始まりです。
二〇六〇年 / 千葉県警察署・少年係事情聴取室 / 深夜二時四十五分
LEDパネルが、不快な高周波を立てて明滅している。
気づいていないふりをするのが、この部屋では正解なのだろう、と思いながら──私はその光を、じっと見ていた。
ここに来るまでの時間を振り返る。友人たちと夜の公園にいた。何をしていたわけじゃない。ただ話していた。家に帰りたくなかったから、外にいた。それだけだ。でも気づいたら、パトカーのライトが光っていた。「君たち、こっちに来なさい」という声がした。みんな散った。私だけ、走るタイミングを逃した。それだけのことだ。
逃げればよかった、とは思わない。ただ──その場で固まった自分を、少し不思議に思っていた。逃げるという選択が、頭に浮かばなかった。それがなぜなのか、今もわからない。
その光は白く、均一で、影を作らない。私の白い肌を、不健康な色に照らし出していた。壁は薄いクリーム色で、汚れと消毒液の匂いが染み込んでいる。窓はない。時刻は深夜二時四十五分。
前の机には、完璧に整えられた身なりの女性警官が、タブレットと書類を前に座っている。横には、一言も発さず、机を規則的に指でトントンと叩き、私を値踏みするように睨みつける男性警官がいる。
女性警官は「優しげ」という仮面の圧力。男性警官は無言の圧力。どちらが怖いかと言えば──前者だった。
手首の端末が、かすかに光った。旧型だ。二年前に母が買ってくれた、リスト型の安い機種。ホログラムが粗くて、投影するたびに輪郭がぼやける。電波の薄い場所では、もっと粗くなる。クラスの子の何人かは、もう薄型フィルムの新型を手首に巻いていた。あれはどこでも鮮明らしい。通知が来ている。見なかった。
私がここにいる理由は──単純だ。友人たちと深夜の公園にいた。ただ、いた。でもそれが「問題」だった。未成年が深夜に外にいること自体が、この社会では「管理すべき事象」に分類される。そしてその中の一人が──以前から目をつけられていた子だったらしい。私はその子の友達だった。それだけだ。
でも「それだけ」は、この部屋では通用しない。
私は今まで、特別な問題児だと思ったことはない。でも──管理システムは私を「管理が必要な存在」として記録してしまった。今夜、この部屋に座ったことで。この記録は消えない。どこかのデータベースに残り続けるだろう。
特定のラベルを貼られると──次からはそのラベルで見られる。先生が、「この子はそういう子だから」と言い始める。母が、「やっぱりこの子は」と言い始める。そうやって、ラベルは現実になっていく。そうやって広がっていく。
この白い光の下で、私は一つのことを考えている。
千葉にいる限り、この白い光から逃げられない。
でも──どこに逃げればいいのか、まだわからなかった。
テーブルの上に、女性警官のタブレットが置いてあった。その画面に、私の情報が表示されているのだろう。氏名、年齢、住所、学校名。もしかしたら成績も。家族構成も。父親が不在だということも。全部、どこかのデータベースに入っている。この社会は、人間を数値で管理する。数値の外側にある「その人らしさ」は、データとして記録されない。
私はその「数値の外側」に、何かがあると思っていた。でも、タブレットの画面に映っている「渡海亜希子」は──私じゃない、という感覚があった。
壁の時計が、カチ、カチ、と音を立てる。二時四十六分になった。男性警官の指が、机をトントン、と叩く。トントン、トントン。規則的に。正確に。まるで何かをスキャンしているような、その音。
部屋の隅に、プラスチックの椅子が並んでいた。私が座っているのも、そのうちの一つだ。背もたれが硬く、微妙に傾いていて、長く座っていると腰が痛くなる。たぶん意図的にそう設計されている。不快な椅子に座らせることで、早く話させようとする──そういう設計。そういうことが、十四歳の私にも、なんとなくわかった。
女性警官は書類をまとめながら、唇の端だけに笑みを浮かべた。その笑みは練習されたものだった。「あなたの味方ですよ」と言いながら「でも正直に話してくれないとね」という圧力を同時に内包した、プロの笑み。私はその笑みを見て、この人は怖い人だ、と思った。怒鳴る人より、静かに計算する人の方が──ずっと怖い。
「......いいかなぁ亜希子ちゃんが二十日の深夜二時四十五分に、この場所になんでいたかどうかは問題じゃ無いんだよね、いい? 大事なのはね、亜希子ちゃんのお友達が、『社会のルール』を破っちゃった事でね、? 一般の人にすっごく迷惑かけて、ルールに従えなかったという事実があって。......それって、大問題だと思わない?」
私はうつむいたまま、指先を握りしめた。
「社会のルール」──その言葉を、この人は当然のものとして使っている。ルールは正しい。ルールを守れない人は問題がある。ルールを守る人は守られる。そういう等式が、最初から成立しているものとして、この会話は始まっている。
でも──誰が決めたルールだ。誰のためのルールだ。
男性警官の指が、机をトントン、と叩く。トントン、トントン。
「もう一度確認したいんだけど、呼び出された相手の子は、どの子だったの? かな? 正直に教えてくれたら、亜希子ちゃんはすぐお家に帰れるんだけど。ねぇ?」
トントン、トントン。
「ほら、お母さんも、心配してたよぉ? 今、こっちに向かってるみたいだから。ネ?」
私はゆっくりと顔を上げた。
「......来るんですか......?」
女性警官は満足げに頷き、身を乗り出した。
「そうだよぉー、すっごく心配してたから。ね、誰と会っていたか教えてもらえると、今後亜希子ちゃんはこの件には関与してない事が証明できるし、いつもの日常に戻れるんだよ? ......応えて、くれるかな」
誰も私を見ていない。
彼女が提示しているのは「救済」じゃない。
友達をシステムに差し出し、自分だけが「まともな部品」として生き残るための、裏切りの契約書だ。
誰かを切り捨てれば、お前だけは社会の歯車として認めてやる。
そうやって、彼らは私たちの意志を、ただの計算可能な数値に変えていく。
私はその言葉の構造を、頭の中で分解していた。
十四歳が「言葉の構造を分解する」──普通じゃないかもしれない。でも、私には母という見本があった。母は疲れると言葉が少なくなる。少ない言葉の中に、たくさんの意味が圧縮される。それを解読することが、私の小さい頃からの習慣だった。言葉の奥を読む。言葉で言っていないことを読む。だからこの女性警官の言葉も──表面の「優しさ」の奥に何があるか、すぐにわかった。
私は答えなかった。
沈黙が続いた。女性警官の笑みが、わずかに固まった。男性警官の指が止まった。
この沈黙は──どちらが「勝つか」という沈黙じゃない。私は別に勝ちたいわけじゃなかった。ただ、答えられなかった。友達の名前を言うことが、できなかった。それだけだ。
女性警官は、もう一度笑みを作ろうとした。でも今度は少し乾いていた。「難しい子ね」と思っているのが、表情からわかった。
「難しい子」で、いい。私はそう思った。システムの要求に素直に従う「簡単な子」になるくらいなら、「難しい子」で、いい。
「......はあ......」
乾いた溜息が、冷え切った空気の中に、ただ虚しく溶けて消えた。
その瞬間、廊下の方でドアが開く音がした。足音。近づいてくる。私は、その足音の速さで──誰かがわかった。
(第5話へ続く)
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