第10話 ここが、私の場所だった
それから、二年が経った。十六歳の亜希子は、ひとつの決断をする——。第9話の続きです。
それから、二年が経った。
高卒認定を取ると、決めた。
宗一郎に告げたのは、工房の作業台の前だった。宗一郎は手を止めず、「そうか」とだけ言った。次の日から、問題集が一冊増えた。
ある夜、工房で宗一郎が染料を混ぜながら、独り言のように言った。
「布の繊維てな、分子レベルで見たら、ほとんど空っぽやねん」
私は問題集から顔を上げた。
「空っぽ?」
「原子の中身、ほぼ何もないやろ。電子がぐるぐるしてるだけで。でも------媒染剤があると、その空っぽのすき間に、染料が入り込んで、結合するんや」
宗一郎は染料の入った桶をゆっくりと混ぜながら、続けた。
「人間が『固い』とか『柔らかい』て感じてるもんは、全部、そのすき間の力やねん。触れてるように見えて、原子同士は触れてへん。反発し合うてるだけや」
「......それ、染め物と関係あるの」
「あるで」宗一郎は少し笑った。「式には必ず理由がある。染料が定着する理由も、宇宙が膨張する理由も、根っこは同じや思てる」
私にはその時、意味がよくわからなかった。
宗一郎はそれ以上説明しなかった。また染料を混ぜ始めた。桶の中で、茜色がゆっくりと広がっていった。
しばらくして、宗一郎が手を止めずにぽつりと言った。
「ちなみにな、俺も逃げたことあるんや」
私は問題集から、また顔を上げた。
「業界から、な」
宗一郎は染料を混ぜたまま、私を見なかった。
「でも、そこから出て、初めてやっとわかることもあるわな、、、」
それだけだった。それ以上、何も言わなかった。
私はこう答えた
「私は逃げてないもん。追い出されただけだし。宗兄ちゃんと一緒じゃないし。」
宗一郎は笑いながら
「あはは、そうか?逃げてへんか。まあ、認識的にはそうか。そうやわなぁ、、、」
そう言いながらまた、黙々と作業に戻った。
私は何と返していいかわからなくて、ただ問題集に視線を戻した。「逃げる」という言葉に、まだ自分の重さを乗せて聞ける年齢ではなかった。
宗一郎はエンジニアだった頃、こういう話をよくしていたらしい。誰かに向けてではなく、ただ、考えながら喋る癖があったらしい。
その夜のことを、長い間、忘れていた。
里江の古い着物が、箪笥の奥から出てきた。
薄い水色の、少し色褪せた紬。「亜希子に似合いそうやから」と里江が言った。宗一郎が工房で染め直し、仕立て直した。仕上がった着物は、深い茜色になっていた。
「なんで茜色にしたの」
「似合うと思って」
それだけだった。
夏。三人で花火大会へ行った。
浴衣の里江と、着物の亜希子と、なぜかスーツ姿の宗一郎。駅前の人混みの中で、宗一郎だけが明らかに浮いていた。
「あんた...なんでスーツやの」と里江に突っ込まれた。
「ん?ハレの日やから」と宗一郎が答えた。
「アホな事言うてやんとはよ着替えてきー」
宗一郎は少し困った顔をして、また団地へ戻っていった。
亜希子は、声を上げて笑った。
こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。自分でも、わからなかった。
着替えて戻ってきた宗一郎と三人で並んで、花火を見た。打ち上げ花火が夜空に咲くたび、宗一郎は空を見上げていた。その横顔が、いつもより少し、遠くを見ているように思えた。
秋。里江が真知子に電話していた。
台所の前を通りかかった時、声が聞こえた。
「あの子はだいぶ良ーなってきてるから心配せんとアンタは政志ちゃんとみたり...」
私は立ち止まらずに、部屋に戻った。
でも------その言葉は、しばらく、胸の中に残った。
いつからか、「仮の置き場所」という言葉を、思わなくなっていた。
工房の作業台の隅が、私の席になっていた。里江の作る夕飯を、当たり前のように待つようになっていた。宗一郎の「もう一回やってみ」が、当たり前のように聞こえるようになっていた。
ここが、私の場所だった。
(第11話へ続く)
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