第11話 別れ
高卒認定試験まで、三週間。その夜、すべてが変わった——。第三・四章の完結です。
高卒認定試験まで、三週間を切っていた。
工房の作業台は、もはや問題集と参考書で埋まっていた。宗一郎は染め作業をしながら、時々こちらを見た。何も言わなかった。でも、その視線の温度は、いつもと少し違った。
数学は何とかなりそうだった。物理も、宗一郎に教わりながら、少しずつ形になってきた。問題は、古文と歴史だった。覚えることが多すぎて、頭の中で全部がごちゃごちゃになる。問題集を開くたびに、目の前が白くなるような感覚があった。
逃げ場が、なかった。
その日の夕方、高槻で出来た友人からメッセージが来た。
団地の電波は、今夜も薄かった。粗いホログラムで浮かぶ文字が、輪郭をぼかしながら宙に揺れた。「今夜、みんなでファミレス行かへん?」
私は少し考えた。三秒で、返信した。「行く」
夕飯の後、宗一郎に告げた。
「今夜、友達と出かけてくる、、、」
宗一郎は湯呑みを置いた。
「試験、三週間切ってるな、、、」
「わかってる」
「わかってて、行くんか?」
「一晩くらい、いいじゃん、、、」
宗一郎は少し間を置いた。それから、静かに言った。
「今やるべきことから逃げるな。大事な選択を間違えるな」
わかってる、と思った。でもその「わかってる」は、本当はわかっていない「わかってる」だった。
「......別に、逃げてるわけじゃない」
「そうか」
それだけだった。責めなかった。怒鳴らなかった。ただ------見ていた。その視線が、余計に、苦しかった。
立ち上がって、鞄を持った。
その時、宗一郎が言った。
「ホンマにこらえ性ないやっちゃな、、、」
足が、止まった。
「千葉の時から、進歩してへんがな」
振り返った。
宗一郎の顔は、穏やかだった。怒っていなかった。ただ------真っ直ぐに、私を見ていた。
それが。それが、駄目だった。
怒鳴ってくれたら、まだよかった。呆れた顔をしてくれたら、まだよかった。でも宗一郎は------本気で私に向き合っていた。だからこそ、その言葉が、急所に入った。
「......うるさい」
声が、震えた。
「うるさい! 関係ないじゃん!」
ドアを開けた。廊下に出た。エレベーターを待てなくて、階段を駆け下りた。
団地の外に出た瞬間、夜の空気が顔に当たった。冷たかった。
走った。どこへ、とも思わずに、走った。
宗一郎「まあ、そのうちわかるか......」
団地の四階、明かりのついた部屋の中で、宗一郎は小さく呟いた。頭をかいた。
湯呑みのお茶が、少し冷めていた。
友人たちとファミレスにいたのは、夜の十一時頃だった。
リスト型端末が震えた。里江からだった。
画面を見た瞬間、胸の中で何かが落ちた。
「亜希子、今どこ? 宗が------救急車、呼んだから。早う帰って来て」
椅子を引く音も聞かずに、立ち上がっていた。
走った。商店街を抜けて、路地を曲がって、団地の前まで。息が切れても止まらなかった。
団地の前に、救急車がいた。赤いランプが、夜の中で回っていた。
担架が運ばれてくるのが見えた。その上に------
「宗兄ちゃん」
声が、出なかった。
里江が担架と一緒に出てきた。私に気づいて、一瞬だけ立ち止まった。
「亜希子! アンタは一旦家におって荷物整理して、いつでもでれる様にしとき、後で連絡するから、私は宗一郎と救急車乗るから、頼むで」
返事が、できなかった。
里江が救急車に乗り込んだ。ドアが閉まった。
赤いランプが遠ざかっていく。
私は団地の前で、立ち尽くしていた。
夜の高槻が、静かだった。
─ ─ ─
病院の廊下は、白かった。
千葉の警察署の廊下に似ていた。でも、あの時とは違う白さだった。あの時は、ただ冷たかった。今は------何かが、抜け落ちたような白さだった。
里江が椅子に座っていた。私はその隣に座った。何も言えなかった。
急性心筋梗塞。
医師の言葉が、頭の中で繰り返された。意味はわかっていた。でも、何かが受け取りを拒否していた。
私があの時、家を飛び出していなければ。工房にいれば。いや------飛び出す前に、気づいていれば。顔色が、いつもより悪かったかもしれない。疲れていたかもしれない。でも私は、自分のことしか考えていなかった。
あの時、振り返らなかった。
「亜希子」
里江が、静かに言った。
「あんたのせいやない」
(第三・四章 完)
(第12話へ続く)
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