第12話 篠崎
宗一郎の死から数年。大学を追われた亜希子に、一通のメッセージが届く——。第五章の始まりです。
宗一郎が死んだ年の秋、私は高卒認定試験に落ちた。
当然だ。試験勉強の追い込みの最中に、家を飛び出し、振り返らなかった。その代償を、試験用紙の前で払った格好だ。
翌年には何とか合格。
里江は何も言わなかった。ただ、その日の夕飯が、少し豪華だった。
そして大学に入った。
国立大学の理論物理学科(量子重力理論専攻)。宗一郎が語ってくれた量子の世界が、今度は数式として目の前に広がった。難しかった。面白かった。工房の夜、染料を混ぜながら「根っこは同じや思てる」と言っていたあの人の言葉が、講義のたびに頭の中で響いた。
一年、留年した。
それも当然だった、と今なら思う。あの頃の私には、まだ足りないものがたくさんあったからだ。
そして、訴訟を起こしたのは、大学三年の春だった。
担当教授からのパワハラは、じわじわと、でも確実に、積み重なっていた。無視、否定、成果の横取り。研究室の中で、私だけが透明な壁の外に置かれているような日々が続いた。
弁護士を立てた。訴状を出した。
産学の圧力は、思ったより早く来た。
判決が出た日、私は大学の廊下に一人でいた。手首の端末が、粗いホログラムで結果を映していた。
敗訴。
文字を見た瞬間、笑いそうになった。泣くより先に、笑いそうになった。
なるほど、システムは相変わらず私に優しくないらしい。
そして、大学を追われた。
連絡が来たのは、追放から三ヶ月後だった。
差出人を見た時、知らない名前だった。篠崎、と書いてあった。メッセージを開くと、こう書いてあった。
「久保宗一郎の元同僚です。亜希子さんのことは、宗から聞いていました」
宗から。
その二文字で、息が止まった。
待ち合わせは、大阪駅前の古いカフェだった。京都に近い側の出口を出て、私鉄の高架を一つくぐった先。看板の電灯が、半分だけ点いていない店だった。
ドアを押した瞬間、コーヒーを焙煎する匂いが、顔に当たった。換気のいい店じゃないのが、すぐにわかった。匂いが、空気の中に、層をなして残っている。
窓際のテーブルに、三人いた。
一番手前に座っていたのが、篠崎さんだった。五十代の男性。グレーのジャケットを着ていて、襟元が少しよれていた。最新の防汚加工が入っていない、古いタイプの繊維だ。手元に、湯呑みみたいな白いマグカップ。中身は、たぶん紅茶。
私が入ってきたのに気づいて、彼は立ち上がった。
立ち上がる時、片手で軽く、テーブルの縁に触れた。ほとんど目立たない動作だったけれど──私は、その手の触れ方を、知っていた。工房で、宗一郎が、染め桶の縁を確かめる時の、あの触れ方だった。物を、わかっている人の手だった。
「久保さんから、よく話を聞いていました」
それが、最初の挨拶だった。
「久保さん」と、篠崎さんは言った。「宗」とは、まだ呼ばなかった。
私は何か答えようとして、声が出なかった。代わりに、頷いた。
篠崎さんが、奥の二人を、片手で示した。「同じ研究機関で、宗とよく組んだ二人です」と言った。一人は六十代に近い男性、もう一人は四十代後半くらいの女性だった。
(第13話へ続く)
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