第30話 新幹線
リニアの改札を、避けた。
亜希子は、高槻へ帰る——。
第29話の続きです。
OLSは崩れた。
でも──似たような構造を持つ企業は、別の名前でいくつも残った。
アルバトロス憲章は成立したが、その解釈を巡る争いは、判決の翌日から始まった。
世界は変わった。
でも、完全には変わらなかった。
それでいい、と思った。完全に変わる世界など、最初から望んでいなかった。
ただ──逃げたくなかっただけだ。
ラヴィは、証人として立った。タイタンのプロトコルに干渉した経緯を、全て話した。弁護側の決定的な証言になった。判決後、ラヴィは宇宙航行資格を自主返納した。「地上で生きる」と言って、妻の母の病院に近い町に引っ越した。一年後、妻との間に子供が生まれた、と聞いた。
エレナの論文は、判決から三ヶ月後に国際誌に掲載された。タイタンによる条件付き推薦ではなく──アルバトロス憲章の成立を受けた自然な採択として。エレナは「やっと出せた」とだけ言った。
私は判決の夜、高槻に電話した。里江が出た。
「勝ったよ」と私は言った。
「そか」
「宗兄ちゃんの名前、世界中に残ったよ」
長い間があった。
「......えらいこっちゃな、、」
それだけだった。でも──電話の向こうで、里江が泣いているのがわかった。
千葉にも電話した。真知子が出た。「見てたで」とだけ言って、切れた。
政志からは、翌朝メッセージが来た。「お疲れ」の三文字だった。それで、十分だった。
判決から数週間後、私は新幹線に乗った。
【新幹線】
リニアの改札を、避けた。
東京駅。リニアの改札と、新幹線の改札は、隣り合っている。リニアの方は、人が少ない。新幹線の方は、いつも通り混んでいる。私は、新幹線の方の列に並んだ。
それは、十四歳のあの夜と、同じ選択だった。
あの時の私は、新幹線しか選べなかった。今の私は、リニアも選べる。判決後の損害賠償の一部が、私の口座に入っていた。リニアの料金など、もう、たいしたことではなかった。
でも──私は、新幹線を選んだ。
母が、あの夜、黙って渡してくれた一枚のチケット。
その選択を、もう一度、自分で、する。
新幹線の窓側に、座った。
東京を出て、しばらくして、富士山が見えた。十四歳の私が、夜行で見られなかった景色だった。山の輪郭が、夕方の光で、はっきりと描かれていた。
そして──その向こうの、空。
茜色が、始まっていた。
【川】
新大阪で乗り換えて、京都線で高槻へ。
高槻駅で降りた瞬間、空気が、変わった。
東京の乾いた空気と、違う。少し、湿っていた。
駅を出て、北へ歩いた。芥川の方へ。三年間、東京の法廷の空調の中にいた肺が、湿った空気を吸い込んで、わずかに咳き込んだ。
川の音が、聞こえた。
芥川。十四歳の夜、私が逃げた、あの川の音。
立ち止まって、欄干に、手を置いた。
水の流れが、見えた。
【染料の匂い】
そして──川の上の風が、運んできた。
染料の匂い。
宗一郎の工房は、もうない。十二年前に、宗一郎が亡くなった後、工房は閉じられた。建物は取り壊された。でも、町には──まだ、染料の匂いが、残っていた。
近くに、別の染め物職人がいるのだろう。あるいは、もっと小さな個人工房が、いくつか、残っているのかもしれない。
宗一郎が育った土地は、染料の匂いを、まだ手放していなかった。
私は、その匂いを、深く、吸い込んだ。
灰の匂い。植物の根の匂い。水の匂い。
法廷の三年間、手ぬぐいから立ち上がっていた、あの匂い。
その源流が、今、私の周りに、立ち込めていた。
(第31話へ続く)
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