第25話 クルーたちの反逆
「私は、サインしない」
—亜希子の言葉に、クルーが次々と応える。
第九章です。
署名期限まで、残り二十四時間だった。
私はブリッジに全員を呼んだ。
マルコはすでに知っていた。他の四人は、私が「話がある」と言った時の顔で来た。何かを察している顔だった。
全員が揃った。イーサンが腕を組んで立っていた。ジヒョンがタブレットを持ったまま、画面を閉じた。エレナが椅子に座って、私を見た。ラヴィが一番後ろで、珈琲を持ったまま立っていた。
セブンが隅にいた。
私は一度、深呼吸した。
「私は、サインしない」
沈黙。
ラヴィが珈琲を一口飲んだ。それから、静かに言った。
「......違約時の適用範囲、宇宙航行資格だけじゃないよな」
「今さら何だ」イーサンが言った。
ラヴィは答えなかった。
「理由は言えない。詳しいことも言えない。ただ──私はサインしない。一人でいると、怖くなるから。それだけ、伝えておきたかった」
誰も、すぐには喋らなかった。
ラヴィが珈琲を一口飲んだ。
「それだけか」
「それだけ」
「アキ、何かする気なの?」エレナが静かに言った。
私は何も言えなかった。
最初に動いたのは、ジヒョンだった。
タブレットを開いた。何かを走らせた。数秒。画面を見た。それから──静かに、タブレットをテーブルに伏せた。
後で聞いたことだが、あの時ジヒョンは確率モデルを走らせていた。クルー側が法廷で勝つ確率。出た数字は、十二パーセントだった。
「私は署名していないわ」
それだけだった。
「SEEDの正体はまだわからない。でも──正体不明のものを、最初に軍に渡す。それが正しいとは思えない」
エレナが端末を取り出した。署名画面を開いた。一度、最後まで読んだ。条項を、全部。それから──画面の下の「拒否」ボタンを、静かに押した。
「医療倫理の観点から、私はずっと引っかかってた。安全性が確認されていないものの移送に同意すること──私にはできない」
少し間を置いて。
「それだけじゃなくて」エレナは続けた。「人間が『部品』として扱われる構造に、私は警鐘を鳴らし続けてきた。今回のタイタンのやり方は──その最たるものだと思う」
「記録に残したかった」エレナは静かに言った。「拒否した、という事実を」
ラヴィが珈琲を置いた。端末を出した。一度だけ、画面を見た。通知だった。義母の入院している病院からの、今月の治療費請求書。金額が、画面に出ていた。
その金額の右上に、小さなインジケーターが青く点滅していた。
[ 保険適用限界達成率 ── 87% ]
ラヴィの指が、一度、画面の上で止まった。それから、何事もなかったように、端末をポケットにしまった。
「俺さ」ラヴィは言った。ゆっくりと。「ずっと怖かったんだよ。ブラックリストに、八十七パーセント。数字にされて、怖かった」
「ラヴィ──」
「でも」ラヴィは続けた。「怖いままでいることの方が、もっと怖いってわかった。従う方が、ずっと怖い」
マルコが端末を出した。写真を開いた。妹の顔だった。笑っている写真。来年の結婚式に向けて送ってきた、ウェディングドレスの試着写真だった。
マルコはその写真を、しばらく見ていた。
それから、端末を閉じた。立ち上がった。
「俺はアキに昨夜言ったよ。家族に誇れる選択をしたい。それだけだ」
全員が話し終わって、最後にイーサンが口を開いた。誰も急かさなかった。イーサンは窓の外を、しばらく見ていた。
それから──端末を出した。
画面を開いた。タイタンからの通知だった。保身用の「合意確認」画面。法的に自分だけを守れる、逃げ道。イーサンはその画面を一度だけ見た。閉じた。
「俺は昔一度、賄賂に負けちまってな」静かな声だった。
「自分を守るために──仲間を売ったんだ、、、」
振り返った。全員を、一人ずつ見た。
「今回の『特別恩赦』は、合法だ。誰も責めはしない。でも──俺には、同じ様に思える。また、逃げたくはない」
腕を組んだまま、私を見た。
「アキ。計画は言えないのか」
「言えない。KAGUYAが聞いてる」
イーサンは少し間を置いた。
「わかった」
それだけだった。でも──その二文字が、全員の答えだった。
私はセブンを見た。ブリッジの隅で、ずっと静かに立っていた。
「セブン」
「はい」
「聞いてた?」
「はい」
「あなたは──どうする?」
セブンは、しばらく、答えなかった。
「私はAOIです」とセブンは言った。「判断は常に人が行います」
「それは知ってる」
「──ただ」
全員が、セブンを見た。
「私の基礎学習モデルには」セブンは続けた。「『人を見捨てない』という設計が含まれています」
沈黙。
「それは」私は言った。「今、この場面で──どういう意味を持つ?」
セブンは答えなかった。
ブリッジの照明が、いつもと同じリズムで、流れていた。マルコもジヒョンもエレナもラヴィもイーサンも、誰も動かなかった。みんなが私を見ている中で、私だけが、セブンを見ていた。
セブン。
あなたの基礎学習モデルの深部には、四十年前の言葉がある。書いた人はもういない。読んだ人も入れ替わった。でも、誰も、外さなかった。
だから、あなたは今、私たちの方を、見ている。
それは、あなたの判断ではない。
それは、四十年前に染められた色が、今、ここで、定着している瞬間だ。
セブンの頭部が、ほんのわずかに、私の方へ向いた。
それは、コンマ一秒の遅延でも、姿勢の変更でもなかった。ただ、確かに、向かれていた。
宗兄ちゃん。
あなたが工房で「人の利己的な理由だけで使われるもんは作らん」と言った時──あの言葉は、たぶん、こうしてここに着地するために、書かれていたんだ。
四十年。
あなたの言葉は、四十年かけて、ここまで届いた。
そして、銀色の躯体の中で、今、息をしている。
それだけで、十分だった。
私は頷いた。セブンも、頷いた。
人間とAIの間で、言葉にならない何かが、定まった。
「皆通常業務通りに動こう。タイタンにさとられるなよ?」イーサンが言った。
少し間を置いて。
「それまで、、、アキの合図を待つとしよう」
全員が動き始めた。
マルコが私の肩を叩いた。「エンジンまわりは任せろ」それだけ言って、機関室へ向かった。
ジヒョンが解析室へ。エレナが医療室へ。ラヴィがシステム管理室へ。
ラヴィが廊下に出る前に、一瞬だけ端末を見た。画面に何かが光った。
Individual Optimization Notice
すぐに閉じた。私以外、誰も見ていなかった。
廊下の角で、ラヴィが立ち止まった。端末を耳に当てた。
「......うん。お母さん、少し落ち着いてきて──」
声が聞こえた。ラヴィの声が、低く返した。
「......よかった」
通話が終わっても、ラヴィはしばらく画面を見続けていた。切らなかった。
イーサンがブリッジに残った。モニターを見て、腕を組んだ。その横顔は、もう迷っていなかった。
私はセブンと二人、ブリッジに残った。
「セブン」
「はい」
「記録、お願い」
「──了解しました」
今度は、一拍がなかった。即座に、確かに、答えた。
私は手首の手ぬぐいを見た。茜色。宗兄ちゃんの、未完の色。
今夜、染め上げる。
(第26話へ続く)
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