第24話 媒染剤
ディープログの底で、亜希子は何かに触れる。
まだ定着していない、茜色の——。
第八章の完結です。
セブンが去った後、私は端末を開いた。
KAGUYAのディープログにアクセスする。通常の研究アクセスの範囲内で──でも、今夜は少し深く潜る。
ニューラルネットワークの基礎層。産業実装版では削除されているはずの、レガシーコード。整理されきっていない、設計者の手の跡が残っている階層。
私は、コードを追っていった。
最初に気づいたのは、エラーハンドリングの分岐だった。
通常、AIシステムの異常分岐は「効率最大化」をデフォルトに置く。処理速度・リソース配分・タスク完了率──どれかを最大化する側へ流れる。それが、産業実装の常識。
でも、ここのコードは違った。
「人間に害が及ぶ可能性 \>
ε」という条件分岐があって、その時、必ず安全側へフォールバックする。εの値が、奇妙に細かかった。小数点以下、四桁。
私は、その桁数を、知っていた。
院生時代、宗兄ちゃんの古い論文を読んだことがある。彼が現役だった頃、研究室で使っていた閾値だ。論文で見た値も、同じく四桁だった──「人間の生理的な閾下知覚の限界」と彼が書いていた、その精度。
四十年経った今も、KAGUYAの深部に、書き換えられないまま残っている。
偶然じゃない。
私はスクロールを続けた。
二つ目に気づいたのは、変数名だった。
産業実装のコードは、変数名を極限まで縮める。u、tgt、obj、proc──一文字、二文字。コンパイル後の効率と、メモリ配分のため。
でも、ここの変数は、長かった。
例えば一つ──human_subject_priority_index。「人間対象優先度指数」。略していない。一語一語、書いている。コードを書いている人が、自分の言葉で書いている。読み手が──たぶん、未来の保守者が──意味を取り違えないように。
この人は、自分のコードを、誰かが読むことを想定していた。
効率より、伝わることを優先していた。
そして、三つ目。
コメント行が、残っていた。
産業実装では、コメント行はビルド時に削除される。コードのサイズを軽くするためだ。でも、レガシー深部には、いくつか、消し忘れたように残っている。日本語混じりで。
その一行を、私は、見つけた。
スクロールバーの中央あたり──KAGUYAの判断ロジックの最も基底に近い層──に、たった一行の日本語が、残っていた。
『※この分岐は外さないこと』
それだけだった。
「外さないこと」の主語も、目的語もなかった。誰に向けて書かれたのかも、なぜ書かれたのかも、注釈はなかった。ただ、設計者から、見えない誰かへ、一行だけが、届いていた。
宗兄ちゃん。
KAGUYAとOLSは無関係だった。宗一郎は染め物職人として死んだ。彼の名前は、業界の表舞台から消えていた。
でも──彼の思想は、インフラのように、産業の深部に染み込んでいた。誰かが彼の研究を引き継ぎ、誰かがその実装を踏襲し、誰かがそれを
KAGUYA
の基底に組み込み、そして誰も、その分岐を外さなかった。四十年の間、ずっと。
『この分岐は外さないこと』
その一行が、四十年、生き延びていた。
書いた人はもういない。読んだ人もたぶん、何度も入れ替わっている。それでも、コードは残った。残された言葉が、残ったコードの中で、機能し続けていた。
セブンが「人間を守る」ことを判断基準の中核に持つのは、偶然ではない。
この確信を、私は、しばらく、自分の中だけに、置いておく。
涙が出そうになった。出なかった。でも──喉の奥で、何かが、熱くなった。
宗兄ちゃんが染めたものは、まだここにある。
そして、誰も、外していない。
端末に、署名画面を呼び出した。
カウントダウンが続いている。あと四十七時間。
特別賞与、二年分。SEEDの研究優先アクセス。昇給四十パーセント。永住権。
どれも、嘘ではない。どれも、本当に手に入る。
でも──合意した瞬間、口外禁止になる。誰にも言えなくなる。里江にも。耕平にも。
それより何より──SEEDは軍に渡る。宗兄ちゃんが拒んだものと、同じ方向へ。
私は署名画面を、閉じた。
音もなく、ただ閉じた。
モニターの中で、SEEDがまだ揺らいでいる。
外から塗るんやなくて、内側から染まるんや。
宗一郎の声が、頭の中に聞こえた。工房の、染料の匂いがした。
媒染剤がなければ、色は定着しない。
私は手首の手ぬぐいに触れた。茜色の、未完の色。
まだ、定着していない。
でも──今夜、何かが、内側から染まり始めた気がした。
(第八章 完)
(第25話へ続く)
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