第21話 七十一時間
残り時間だけが、静かに減っていく。それぞれの迷いが、露わになる——。第20話の続きです。
KAGUYAの音声が、止んだ。
画面の右下で、カウンターだけが、生きていた。
残り 71:58:42
マルコが、椅子に深く沈んだ。
天井を見上げて、両手で顔を覆って、それから、顔を覆ったまま言った。
「Uffa......、なあ。これ、おかしくないか」
誰にも答えを求めていなかった。
「いや、わかってる。おかしいんだ。でも、おかしいって言うと、自分が損する。それが、もっとおかしい」
マルコは、そのまま、しばらく顔を覆っていた。
ラヴィは、伏せた端末の上に、両手を置いていた。
声は、低かった。
「サインしたら──もう、誰にも、言えなくなる」
「ええ」とジヒョンが言った。
「家族にも」
「そうね」
ラヴィは、目を上げなかった。
「うちの妻は、ニュースをよく見る人で──」彼の声は、静かだった。「そういう人を持ってる人間が、サインするって、どういうことなのか」
彼は、最後まで言わなかった。
言わなくても、わかった。
彼の端末が、もう一度、小さく震えた。
ラヴィは、見なかった。
でも、画面の縁から、淡い赤色のラベルが、わずかに漏れていた。
[ 医療費補助 --- 最適化通知 / 義母様 ]
私の位置からは、それだけしか、見えなかった。
でも、それで、十分だった。
ラヴィの端末には、「特別恩赦」とは別の通知が、もう一通、来ている。
彼の義母さんの医療費補助の、──たぶん、優先審査か、増額の話。
「ラヴィのところだけ、別経路で」と、システムが囁いている。
タイタンは、知っている。
ラヴィのどこを押せば、いちばん効くか。
ラヴィのいちばん柔らかいところを、ピンポイントで、押している。
これを「個別最適化」と呼ぶのが、現代の語法だ。
昔は、別の呼び方があったと思う。
エレナは、しばらく、目を閉じていた。
やがて、ゆっくりと開けて、彼女は、誰にともなく、言った。
「私は、署名できない」
声は、平らだった。怒っているのではなかった。判断を下しているのでもなかった。
ただ、結論として、そう述べた。
「安全性が、まだ確認されていない物体の、軍事施設への移送に、医療担当として、署名はできない。論文がどうなろうと、関係ない。これは、医療倫理の問題」
マルコが、顔を覆っていた手を、はずした。
「エレナ」
「ええ」
「お前、それ、KAGUYAに聞かれてるぞ」
「ええ」
エレナは、表情を変えなかった。
「聞かれていてくれた方が、いいでしょう。私が、今、どう思っているか。記録に残してほしい」
ジヒョンが、わずかに、首を傾げた。
そして、テーブルの中央へ、視線を戻した。誰の顔も、見ていなかった。
「私は、結論を急がない」
「うん」
「七十二時間ある。考えるための時間だわ。タイタンが、自分でそう設定した。なら、私たちは、その時間を、使っていいはず」
彼女は、そこで、初めて、私たちを見渡した。
「KAGUYAはもうデータを持っている。タイタンも持っている。回収は、止められない。でも──」
彼女は、自分のタブレットを、軽く指で叩いた。
「私たちが、どう判断するかは、まだ、私たちが決めること」
マルコが、息を、長く吐いた。
「、、、Esatto」
一度、第六章で出した言葉を、彼はまた使った。今度は、自分に向けて、言っていた。
イーサンは、それまで、何も言わなかった。
ただ、テーブルの上で、両手を組んでいた。
やがて、組んだ手のひらを、ほんの少しだけ、緩めた。
そして、誰の方も、見ずに、低く言った。
「、、、一度、賄賂に負けた」
一文だけだった。
声は、ほとんど聞き取れないくらい、低かった。
彼は、テーブルを見ていた。肩書きで自分を守らない人が、一度だけ、過去のことを、言った。
宣言ではなかった。懺悔でもなかった。ただ、自分自身に、思い出させているような声だった。
誰も、それに、答えなかった。
マルコも、何も言わなかった。マルコが何も言わない時は、たいてい、彼が一番、わかっている時だった。
私は、自分の端末を、閉じた。
カウンターが、まだ、向こう側で動いているのは、わかっていた。
でも──もう、見たくなかった。
一度、賄賂に負けた──という言葉を、こんな声で言える人を、私は、何人か知っている。
みんな、二度目では負けない。
(第22話へ続く)
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