第16話 SEED
名前のないものに、名前をつける。それは、ほんの小さな抵抗だった——。第15話の続きです。
「アキ」
ジヒョンの声で、私は顔を上げた。
「真空相転移」と、私はやっと言った。
「うん?」
「球体の内側で、真空状態が、外側と違う。エネルギーは、その差から、生まれている、、、可能性がある」
ジヒョンはタブレットを叩いた。「数値、合いそう?」
「完全じゃない。でも、これまでで一番、崩れなかった」
「真空相転移核、か」ジヒョンは静かに言った。「他には?」
「高次元接続体」と私は答えた。「三次元空間の外部と接続していて、球体はその断面に過ぎない、っていう仮説も、一応、立つ」
「あと?」
私は少し間を置いた。ジヒョンも、もう、たぶん、辿り着いていた。
「──自然発生じゃない可能性」
「設計物」ジヒョンが言った。
「うん」
「エネルギー供給ノード」ジヒョンは淡々と続けた。その声が、わずかに──ほんのわずかに──震えていた。「誰かが、作った、、、⁈」
沈黙が、解析室に落ちた。
誰かが作った。
量子重力理論を学んだ私は、その言葉の重さを知っている。「設計物」という仮説は、「未知の文明」という仮説と同義だ。
なるほど。宇宙は私たちに、まだ名前のついていない問題を出してくるらしい。
「なあアキ」マルコがふっと顔を上げた。
仮説をまとめたモニターが、私たち二人の間にあった。三つの可能性が並んでいる。真空相転移核、高次元接続体、設計物。
どれも、まだ名前を持っていない、目の前のあれを説明するために絞り出した、ただの言葉だった。
「俺たち、いつまであれを『あれ』とか『対象物』とか呼ぶつもりだ?」
「......たしかに」
報告書のドラフトには、ずっと「Object-Unidentified-001」と打っていた。十回くらい打って、十回ともしっくりこなかった。
ジヒョンが顔を上げずに言った。
「正式名称は本社が決めるわよ」
「ああ。でも、本社が決めるまで何て呼ぶんだ?」マルコが返した。「五時間ずっと『あれ』『あれ』って言ってたぞ俺たち」
ジヒョンは少し黙った。それから、肩を小さく動かした。たぶん、笑った。
私はモニターを見た。
直径十メートルの、黒に近い球体。ピントが合わない。輪郭が揺らぐ。中身がない。でも何かが、ぎっしり詰まっている。
エネルギーが、外から、入ってきている──のではなくて。
真空が、内側から、書き換わっている。
そう思った時──
さっき、頭の片隅で滲んだ宗兄ちゃんの声が、もう一度、戻ってきた。
工房の隅。茜色の染料が、白い布に、外側から入っていく。
──のではなくて。
繊維の内側が、染料を受け入れる構造に、変わる。
そして、内側から、染まっていく。
二度目は、最初より、はっきり聞こえた。
ふっと、口が動いた。
「なんか、種みたいだね」
声に出してから、自分でも少し驚いた。
場違いな言葉だった。仮説の重さに比べて、あまりにも。
でも──
マルコが、私を見た。
一瞬。
「......Esatto」
顔の前で、指がパチッと鳴った。
「じゃあSEEDだ」
ジヒョンがタブレットから顔を上げた。
「SEED」
「Seed of unknown energy
distribution。略してSEED」マルコが即興で組み立てた。「どうだ、悪くない」
「後付けすぎるわ」ジヒョンが言った。でも、声が少し柔らかくなっていた。
私は、笑いそうになった。
こんな状況で、笑いそうになっている自分が、不思議だった。
「SEED」と私は声に出して言った。
呼んでみる。何かが、少しだけ、輪郭を持った気がした。
名前のないものに名前をつける──
それは、たぶん、私たちが宇宙にできる、いちばん古くて、いちばん原始的な、抵抗だった。
宗兄ちゃん。
あなたが布の繊維の内側を、染料を受け入れる構造に変えたみたいに──
私たちは今、宇宙に、名前を入れた。
それは、ほんの小さな抵抗だったけれど。
セブンが解析室に入ってきたのは、その直後だった。
(第17話へ続く)
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