第7話 仮面の裏側
大家さんの部屋に、置き薬を届けるだけのつもりだった。
ヴォルフは留守だった。部屋の扉は開いていた。薬の小瓶を棚に置こうとして、机の上に目が留まった。
書類の束。地図。辺境一帯の交易路を示す見取り図。そして紋章入りの封書。蝋の封印に押された紋章は、冠を咥えた鷹。書類の表紙に印刷された文字が読めた。
「王国密偵長官府 機密資料」
指先が冷たくなった。
書類をめくる。辺境の宿場町における資金の流れ。横流しネットワークの組織図。監視対象者のリスト。その中に、私の名前があった。
「フィーネ・ブラント。元公爵令嬢。追放先において万屋を開業。動向を注視」
足音。
振り返ると、ヴォルフが立っていた。扉の枠に手をかけて、じっと私を見ている。
その目を見た瞬間、全部分かった。この人は大家なんかじゃない。
廊下に出た。ヴォルフが後を追ってくる。
「フィーネ」
「説明してください」
振り返らなかった。声が震えるのが嫌だった。
「あなたは誰ですか。元将軍じゃない。大家でもない。国王直属の密偵。それが本当のあなたですか」
「……ああ」
「私を監視していたんですね」
「否定はしない」
立ち止まった。振り返った。
ヴォルフの顔は、いつもの無表情だった。言い訳をしない顔。
「最初は任務だった」
抑えた声で言った。
「この町は横流し資金の末端が集中する場所だ。俺は内偵のためにここにいた。お前の追放先がこの町だったのは偶然だ」
「偶然」
「ああ。偶然だった。だが」
「都合のいい言い訳はやめてください」
自分の声が鋭くなるのを止められなかった。
「看板を作ってくれたのも任務ですか。スープを作ってくれたのも、薬を塗ってくれたのも、一晩中椅子で看病してくれたのも。全部、密偵としての仕事ですか」
ヴォルフの目が揺れた。
「……それは」
「答えなくていいです。もう結構です」
背を向けた。涙は出なかった。出してたまるか。
「フィーネ」
「私のことはもう監視しなくていいですよ、密偵長官殿。私は自分の力でやりますから」
宿を出た。万屋の扉を開けて、閉めて、鍵をかけた。
壁に背中をつけて、ずるずると座り込んだ。
信じていた。あの不器用な優しさを、全部、本物だと思っていた。
王都。王太子執務室。
俺は机の上の書類を読み直した。
フィーネの追放。国家反逆罪。その根拠となった証拠書類。先日の貴族会議で、ラングナー男爵が「辺境の相談役」を称えた。追放令嬢のことだと噂されている。
追放された令嬢が、辺境で不正を暴いている?
証拠書類をもう一度読んだ。今度は、疑う目で。
おかしい。証人の一人が、証言した日に王都にいなかった可能性がある。外交使節団の記録と日付が重なる。
セレスティアの部屋を訪ねた。
「セレスティア。フィーネの追放の件で、一つ聞きたいことがある」
「あなたはわたくしを疑うのですか?」
涙。白い指で頬を押さえ、肩を震わせる。
胸が痛んだ。この涙を無視できるほど、俺は冷たくなれなかった。
「……すまない。疑ったわけじゃない」
引き下がった。
だが執務室に戻って、書類をもう一度見た。証人の日付の矛盾は、消えない。
万屋。深夜。
壁に貼った五枚の依頼メモ。その横に、新しい紙を貼った。セレスティアの紋章入り封書。偽造手法の同一性。慈善基金への送金記録。各依頼の仲介者の繋がり。
全部並べた。法令集を開いた。再審請求の章。
「重大事件の再審請求は、新証拠の提出をもって書面により申し立てることができる。申し立ては郵送によることを妨げない」
郵送で、申し立てができる。
王都に行かなくても、書面を送れば審問官が審査する。受理されれば一時入京許可証が発行される。
法令集を閉じた。ペンを取った。便箋を広げた。
「王立審問官殿。追放令フィーネ・ブラントに対する国家反逆罪について、再審請求を申し立てます。新証拠は以下の通り」
手が震えた。でも止まらなかった。
誰にも頼らない。ヴォルフにも。父にも。ルドルフ殿下にも。
私の冤罪は、私の手で晴らす。
翌朝、辺境の郵便所から王都行きの書留を出した。受付の老人が「王都宛てか。珍しいな」と言った。銅貨三十枚。財布が軽くなった。
宿に戻る途中、ヴォルフの宿の窓が見えた。灯りはついていなかった。




