第6話 倒れた日
目が覚めたら、知らない天井が見えた。
嘘だ。大家さんの宿の天井だ。見慣れた木目の染み。右上の角に小さな蜘蛛の巣。
体が重い。頭の芯が熱い。起き上がろうとして、腕に力が入らなかった。
「動くな」
横を見ると、ヴォルフが椅子に座っていた。腕を組んで、不機嫌そうな顔で私を見下ろしている。
「……何が、あったんですか」
「お前が万屋の床で倒れた。俺が運んだ」
記憶が断片的に戻ってくる。壁に貼った依頼メモを見つめていた。四件分の証拠を並べて、繋がりを探していた。食事を取ったのはいつだったか。眠ったのは。覚えていない。
「三日まともに寝てないだろう」
「……二日です」
「同じだ」
ヴォルフが枕元に椀を置いた。薬湯。苦い香りがする。
「飲め。三日寝ろ。話はそれからだ」
逆らう気力もなかった。薬湯を飲み干すと、体の芯にじわりと温かさが広がった。
三日間、ベッドから出ることを許されなかった。
四日目の朝。熱は引いたが、体はまだ重い。
それでも万屋に下りた。ヴォルフが「まだ早い」と言ったが、聞かなかった。理由がある。この三日の間にヴォルフが代わりに応対した依頼人がいたのだ。
「老婦人が来た。息子が冤罪で投獄されたと言っていた。お前が回復するまで待つと伝えたが、毎朝万屋の前に来て立っている」
万屋の扉を開けると、案の定そこにいた。六十を過ぎた小柄な体。背筋はまっすぐだが、目の下に深い隈がある。
「あの……万屋さまとお聞きして」
マルタ、と名乗った老婦人は、息子の話をした。
息子のトーマスは辺境の穀物倉庫の管理人だった。半年前、倉庫から穀物が消えたとして横領罪で投獄された。証拠は帳簿の不一致と、トーマスが横領を認めたとする証人の証言。
「でも、あの子はやっていません」
母親の直感。それだけでは証拠にならない。でも。
「帳簿と証言記録を見せていただけますか」
マルタが風呂敷から書類を取り出した。息子の裁判記録の写し。
読み始めて、すぐに手が止まった。
この手口。見覚えがある。
辺境の牢獄は、代官事務所の地下にあった。湿った石壁。鉄格子の向こうに、痩せた若い男が座っている。トーマス。目に光がなかった。
「トーマスさん。私はフィーネ。万屋の相談役です。お母さまに依頼されて来ました」
「……母が? もういいのに。俺がやったことになってるんだから」
「なってるんですか。やったんですか」
「……やってない」
声が震えた。
「証言記録を読みました。あなたの横領を証言した二名のうち、一人は倉庫の出入り記録と矛盾する日に『トーマスが穀物を運び出すのを見た』と言っています。その日、あなたは代官事務所で別件の届け出をしていた」
トーマスが顔を上げた。
「帳簿の不一致も確認しました。消えた穀物の量と帳簿の差額が一致しません。帳簿には本来存在しない『管理手数料』の項目がある」
管理手数料。ラングナー男爵の帳簿にもあった項目。同じ名目。同じ手口。
そしてこの偽造された横領の証拠。筆跡の偽装パターン。証人の買収の仕方。帳簿の改竄方法。
全部、見たことがある。
追放の日、断罪の間で読み上げられた、私の「国家反逆罪の証拠」。あの時は反論する間もなく追放されたが、脳裏に焼きついた証拠の構造。
同じだ。筆跡の偽装方法が同じ。証人を二名用意するやり方が同じ。帳簿に架空の項目を紛れ込ませる技術が同じ。
「……私の追放も、こうやって作られた偽の証拠で。同じ人間が作っている」
代官事務所に上がり、矛盾を指摘した。証人の証言と出入り記録の不一致。管理手数料の無権限。帳簿改竄の真犯人が横流しネットワークの中間管理者であること。
「……トーマス・ヴェーバーの横領罪を取り消し、釈放する」
牢獄から出てきたトーマスを、マルタが泣きながら抱きしめた。
夜。部屋のベッドに戻ったら、また体が重くなった。まだ本調子ではないのに無理をしたツケだ。
うとうとしていると、扉が軋む音がした。
薄目を開ける。ヴォルフが椅子を持ち込んで座っていた。枕元に水差しと手ぬぐい。手ぬぐいを水に浸して、私の額に乗せてくれる。
「……大家さん」
「寝てろ」
「すみません……」
「同じことを二度言わせるな」
目を閉じた。額の上の手ぬぐいが冷たくて気持ちいい。熱に浮かされた頭の中で、トーマスの冤罪と自分の冤罪が重なる。同じ偽造者。同じ手口。
つまり、私の冤罪も晴らせる。
同じ手口で作られた偽の証拠だと証明できれば。
希望と熱が一緒にぐるぐると回って、いつの間にか眠りに落ちた。
目が覚めたのは明け方だった。窓の隙間から青い光が差している。
横を見た。ヴォルフが椅子で眠っていた。腕を組んだまま、少しだけ顔を傾けて。起きている時とは違う、無防備な寝顔。右手が椅子の肘掛けから垂れ下がっている。大きな手。何かに伸ばしかけて、途中でやめたような格好。
布団を、そっとヴォルフの肩にかけた。
心臓が速い。それがなぜなのか、私はまだ「大家さんへの感謝」だと思っていた。
枕元に水差しが置いてある。冷たい。




