第5話 王都に届く名前
辺境男爵ラングナー領の徴税帳簿には、美しい筆跡で嘘が並んでいた。
依頼人はラングナー男爵本人。四十五歳、実直な顔つきの領主だ。万屋の椅子に深く座り、疲れ切った声で言った。
「帳簿と実際の税収が合わない。三年前から少しずつ、しかし確実にずれている。このままでは領民が冬を越せない」
「具体的にはどのくらいの差額ですか」
「年間で銀貨八百枚ほどだ。領の年間税収の二割にあたる」
二割。致命的な数字だ。
「帳簿をお借りできますか」
三年分の帳簿を広げた。数字を一行ずつ追う。会計の専門家ではないが、書類を読む訓練は積んでいる。数字の流れに不自然な点がないか、合計が本当に合っているか、一つずつ検算していく。
二日かかった。肩と腰が悲鳴を上げている。書庫の椅子が硬すぎるのだ。
結果として見えたのは、税収の一部が「管理手数料」という名目で外部に流れていること。宛先はぼかされているが、辿っていくと王都の某組織に行き着いた。名前のない団体。送金先が王都の慈善基金の口座に繋がっている。
慈善基金。嫌な予感がする。
まだ確証はない。だが、遺産横取りの仲介者、偽の借金証書の債権者、替え玉婚約の手配者。全員が繋がっていた組織の先に、この慈善基金がある。
「男爵。帳簿の不正は確認できました。管理手数料は無権限の支出であり、回収請求が可能です」
ラングナー男爵の目が潤んだ。この人は領民のために怒り、領民のために疲れ果てていたのだ。
「感謝する。この辺境に来てくれて、本当に……」
「いえ。お礼はお代で結構です」
ラングナー男爵が王都に向かったのは、その翌週だった。
貴族会議。年に四度開かれる、貴族たちの議場。男爵が何を話したのか、私は直接には知らない。後日、辺境に届いた議事録の写しで読んだ。
「領民が餓死寸前だったところを、辺境の相談役に帳簿の不正を暴いていただいた。この場をお借りして感謝を申し上げる」
辺境の相談役。私の名前は出していない。追放令嬢を公に称賛することは、追放令を出した王太子殿下の判断を否定することになる。辺境男爵にとっては大きなリスクだ。
それでも、匿名であっても言わずにはいられなかったのだろう。領民が死にかけていたのだから。
議事録を読みながら、鼻の奥がつんとした。
その日の夕方。夕食にやや遅れてきたヴォルフの靴に、見慣れない泥がついていた。宿の周りにはない、赤土の泥。
「大家さん、どこかに?」
「通りすがりの知り合いに会った」
「この辺境にお知り合いが?」
「……スープ、冷める」
それ以上は何も言わなかった。
食後、差し入れのスープの器を返そうとしたら、ヴォルフがぶっきらぼうに言った。
「器は俺が洗う。置いておけ」
「いつもすみません」
「いい」
何でもないやり取り。何でもないはずなのに、ヴォルフがスープの器を受け取る時の手つきが、妙に丁寧だった。
王都。聖女の間。
わたくしは窓辺の長椅子に座り、報告書を読んでいた。
辺境からの定例報告。密偵が送ってきたもの。いつもなら流し読みで済ませる程度の、つまらない書類。
だが今日は違った。
「辺境の相談役……」
貴族会議の議事録に目が留まった。ラングナー男爵の発言。匿名。でもわたくしには分かる。
「フィーネ・ブラント」
あの女。追放されたはずの公爵令嬢。まだ動いている。それどころか、辺境で人望を集め始めている。そして帳簿の不正。
指先が、報告書の端を強く掴んだ。紙が皺になる。
窓の外を見た。王都の美しい街並み。白い尖塔。整えられた石畳。
二度と、あの暗い路地には戻らない。
幼い頃の記憶が一瞬だけ蘇る。泥と腐臭と飢え。あの地獄に比べれば、多少の嘘など何でもなかった。何でもないはずだった。
報告書を閉じた。
「面倒ですわね」
微笑んだ。冷たく、静かに。
万屋。夜。
壁に貼った依頼メモを見上げた。
一件目、遺産横取り。二件目、偽の借金。三件目、替え玉婚約。四件目、税収横流し。
四枚のメモを、指で順番になぞった。
手口は全部違う。場所も違う。被害者も違う。
でも。
「全部、同じ根から生えてる」
声に出すと、確信が固まった。
この辺境で起きている不正は、個別の犯罪ではない。一つの組織が、辺境の弱い立場の人間から金を吸い上げている。そしてその金の行き先は王都の慈善基金。
聖女の紋章。密偵。慈善基金。
まだ線は繋がりきっていない。でも、もう少しだ。
ランプの灯りが揺れた。壁の追放通達書が影を落としている。
私を追放した理由。それも、この絵の中にあるのかもしれない。
窓の外で犬が吠えた。うるさい町だ。でも嫌いではない。




