3話 密偵と辺境の人々
「借用証書 金額:銀貨三百枚 債務者:ハンス・ベッカー」
紙質がおかしい、と私は最初の一行で気づいた。
万屋を開業して二週間。三件目の依頼人は、辺境の雑貨商ハンスだった。がっしりとした体格に日焼けした顔。人懐っこい笑顔の奥に、疲れた目をしている。
「半年前に借りた覚えのない金の証書を突きつけられて、毎月銀貨十枚ずつ返せと言われてるんだ。払わなきゃ店を差し押さえるって」
「この証書、触ってもいいですか」
「ああ、もちろん」
指先で紙の端をなぞる。
この紙は薄い。公証紙にしては繊維のきめが粗い。インクの色も妙だ。この国の一般的なインクは鉄媒染で暗褐色に沈むが、この文字は微かに青みがかっている。
「ハンスさん、この証書に心当たりは本当にない?」
「ないね。酔って書いたんじゃないかとも言われたけど、俺は酒を飲まないんだ。胃が弱くてね」
「わかりました。鑑定士に見てもらいましょう」
辺境にも魔法鑑定士はいる。王立ではない地方の鑑定士で、費用は銀貨五枚。できることは限られるが、インクの産地特定と紙質の大分類は可能だ。
翌日、結果が出た。インクは外国産の特殊品。この辺境では流通していない代物だ。紙質も公証紙ではなく、一般の便箋に近い。
「偽造ですね」
ハンスが目を見開いた。
代官事務所。二度目の訪問になる。代官は私の顔を見て、あからさまにため息をついた。
「……また君か」
「またです。商人ハンス・ベッカーに対する借金請求の件で、借用証書の偽造を申し立てます」
債権者の男が横で腕を組んでいた。目つきの悪い、脂ぎった顔。
「偽造だと? ふざけるな。正式な証書だ」
「正式な証書であれば公証紙に記されているはずです。しかし鑑定の結果、この紙は公証紙ではありません。さらにインクは国内では流通していない外国産の特殊品です」
鑑定士の報告書を代官に差し出す。
「公証紙でもなく、国内のインクでもない文書を、正式な借用証書と認めることはできません。代官殿、この証書は偽造の疑いが極めて強い。ハンス・ベッカーへの請求は無効であり、偽造証書による請求は詐欺罪に該当します」
代官が鑑定書を読み、証書と見比べた。
「……借用証書は無効と認める。債権者を詐欺の疑いで拘束せよ」
衛兵が債権者の腕を掴んだ。男は何かを叫んでいたが、その目が一瞬だけ怯えたように揺れたのを、私は見逃さなかった。
あの怯え方は、自分の罪を恐れているのとは違う。誰かを恐れている。この男を動かしている誰かが、背後にいる。
だが今は、ハンスの笑顔のほうが大事だった。
「フィーネちゃん、ありがとうな! 店を取られるかと思って眠れなかったんだ」
「ちゃん付けはやめてください。依頼人としてきちんとお代はいただきますので」
「はっはっは、そこは商売人だなあ!」
万屋に戻る途中だった。
角を曲がったところで、見知らぬ男に道を塞がれた。灰色の外套。フードの下の顔は若い。だが目が笑っていない。腰に短剣。
「フィーネ・ブラント殿。少しお話を」
「どちら様ですか」
「王都から参りました。……元公爵令嬢殿、王都に戻りたくはありませんか」
心臓が一拍だけ跳ねた。
「戻りたいなら協力していただきたい。こちらの求める情報を流していただければ、追放の件も」
「お断りします」
密偵が眉を上げた。
「即答ですか」
「条件に関わらず、お断りです。私は辺境で自分の仕事をしています。誰かの手先になるつもりはありません」
密偵の目が細くなった。一歩近づいてくる。圧が変わった。
「追放令嬢殿。あなたの立場はご存じですよね。辺境での安全は、誰が保証して」
「この人に何してるんだ」
背後から声がした。ハンスだ。
振り返ると、ハンスだけではなかった。リーザが娘の手を引いて立っている。酒場の主人、八百屋のおかみさん、鍛冶屋の親方。通りがかりの人々がいつの間にか足を止め、密偵と私を取り囲んでいた。
ハンスが腕を組んで密偵の前に立った。
「この人は俺たちの恩人だ。手を出すなよ」
リーザが娘を後ろに庇いながら言った。声が震えている。
「この方がいなかったら、私と娘は……! あなたたちに、この人を連れていく権利なんて……!」
密偵の顔から表情が消えた。人数を数えている。十人以上。戦って切り抜けられる数ではないと判断したのだろう。
「……覚えておきます」
踵を返した。外套の裾が翻る。周囲を囲む住民を避けようとして体がぶつかり、懐から白い封書が滑り落ちた。密偵は気づかずに角を曲がり、消えた。
私は封書を拾い上げた。
裏面に蝋の封印。そこに押された紋章は、聖女セレスティア・ローゼの個人紋だった。
「……聖女さまが、なぜ私に密偵を?」
万屋の奥の小部屋で、封書を開いた。中は白紙。紋章入りの封書だけが渡されている。密偵が「誰の命令で動いているか」を示す身分証のようなものだ。
なぜセレスティアが。追放された私に、まだ何か用があるのか。
「見せろ」
ヴォルフが入ってきた。封書を手に取り、紋章を見た瞬間、目の色が変わった。ほんの一瞬。すぐにいつもの顔に戻る。
「……大家さん? この紋章に心当たりが?」
「いや」
短い否定。目を合わせない。
「……お前、手」
「え?」
言われて気づいた。右手の甲に擦り傷がある。密偵に道を塞がれた時に壁に手をついたらしい。血が滲んでいる。
ヴォルフが棚から小瓶を取り出した。軟膏。私の手を取って、傷口に塗り始める。大きな手。不器用だけれど丁寧な動き。
「……夜の一人歩きはやめろ」
「今は昼でしたけど」
「昼でもだ」
声が、震えていた。ほんのわずかに。
「……頼むから」
その最後の一言は、大家が店子に言う言葉ではなかった。
でもそれが何なのか、私にはまだわからなかった。
窓の外で、辺境の夕日が沈んでいく。聖女の紋章が、テーブルの上で夕日に照らされていた。




