第2話 万屋開店、最初の依頼
辺境の書庫に通い詰めて三日目、私はこの国の法律の骨格をだいたい掴んだ。
相続法。契約法。証拠法。刑事手続法。
条文の一つひとつは前世の法体系とまるで違う。だが骨格は同じだ。主張には根拠が必要で、根拠には証拠が必要で、証拠には形式要件がある。遺言書には証人二名の直筆署名。契約書には当事者の押印と立会人。裁判の証拠として認められるには、書証、証人、魔法鑑定のうち二つ以上。
どこに穴があるか。どう突けば崩れるか。その目は、前世で鍛えた。
法令集を三冊抱えて宿に戻ると、ヴォルフが入り口の柱に背を預けて立っていた。
「大家さん、お願いがあります」
「……なんだ」
「隣の空き店舗を貸してください。万屋兼相談所を開きたいのです」
ヴォルフの眉が微かに動いた。
「何屋だ」
「困りごとなら何でも。法律の知識を使って、この町の人たちの相談に乗ります」
長い沈黙。ヴォルフは腕を組んだまま、私の顔をじっと見た。値踏みではない。もっと別の何かを確かめるような目。
「……好きにしろ。家賃は出世払いでいい」
「ありがとうございます。必ず払います」
「期待してない」
素っ気ない声。でも、口元が少しだけ緩んだ気がした。
万屋を開業して最初の日。客は来なかった。当然だ。看板もなければ評判もない。
暇なので棚を拭き、法令集を読み返し、町の雑貨屋で安い茶葉を買った。銅貨が五枚しかなくて、一番安い茶葉しか選べなかった。渋くて美味しくない。でも自分の金で買ったものだ。
二日目の昼過ぎ。
扉が叩かれた。
開けると、涙目の若い女性が立っていた。五つくらいの女の子の手を引いている。子どもの頬が痩けていた。
「お願いです、助けてください」
リーザ、と名乗ったその女性は、震える声で事情を語った。
半年前に夫を病で亡くした。遺されたのは小さな家と畑。ところが夫の母が、「息子から遺産はすべて私に譲ると口約束された」と主張し、遺言書を持ち出してきた。リーザと娘は今月中に家を出ろと迫られている。
「義母さまの遺言書を見せていただけますか」
リーザが懐から折り畳まれた紙を取り出す。
受け取って広げた。
ここだ。
書類を見た瞬間に「おかしい」と感じる感覚。毎日何十枚もの書類を仕分けてきた手が覚えている嗅覚。
「リーザさん。この遺言書には証人が二名記載されていますね」
「はい……」
「この国の相続法では、遺言書の証人は二名の直筆署名が必要です。ところが」
指で一箇所を差した。
「この二人目の証人、マティアスさんの署名。筆跡が一人目の証人の筆跡と酷似しています。同一人物が代筆した可能性があります」
リーザが目を見開いた。
「確認させてください。マティアスさんは、文字を書ける方ですか」
「いえ……マティアスおじさんは、字が読めないはずです」
やはり。
「であれば、この署名は代筆です。代筆の署名では遺言書の形式要件を満たしません。この遺言書は、法的に無効です」
翌日、代官事務所。
辺境を管轄する代官は、恰幅のいい初老の男だった。面倒事を嫌う顔をしている。だが法に基づいた申し立ては無視できない。
「……それで、追放令嬢殿。何の用かな」
「リーザ・メラーの相続権に関する異議申し立てです」
私は義母の遺言書の写しと、マティアスから聴き取った証言記録を差し出した。
代官が目を通す。義母のヘルダが割って入った。小柄だが目つきの鋭い女だ。
「何ですかこれは。嫁が余所者を連れてきて、亡き息子の意志を踏みにじるつもりですか」
「踏みにじってはいません。法に照らして確認しているだけです」
「法、法って……。息子は確かに私に『母さんに任せる』と言ったんです! 証人だっているでしょう!」
「証人のマティアスさんは、ご自身で署名していません。字が読めない方の署名が代筆されています」
ヘルダの顔色が変わった。
「そ、そんな細かいことで」
「法とは細かいことの集合体です」
静かに言った。
「遺言書の形式要件は、遺族を守るために存在します。正しい手続きを踏まない主張は、どれほど声が大きくても通りません。代官殿、この遺言書は証人要件を欠いており無効です。リーザ・メラーの法定相続権が優先されます」
代官が唸った。遺言書を裏返し、表に返し、もう一度マティアスの証言記録を読む。
「……遺言書は無効と認める。相続権はリーザ・メラーにある」
リーザが私の手を握った。涙がぼろぼろ溢れている。隣で女の子が母親のスカートを掴んで、きょとんとこちらを見上げていた。
「ありがとう、ございます……」
「泣かないでください。あなたの権利を守っただけですから」
翌朝。
万屋の扉を開けた私は、目を瞬いた。
ドアの横に、木の看板がかかっている。
素朴な板に、不器用な字で彫ってある。「万屋」。塗りは雑だが、角がきちんと磨かれている。手間をかけた跡がある。
「……誰が?」
宿の入り口にヴォルフが立っていた。いつもの無表情。ただし、右手の爪の間に木くずが詰まっている。
「大家さん。この看板、もしかして」
「通りがかりの店で買った」
「嘘ですね」
「……」
ヴォルフは目を逸らした。耳の先が、ほんの少しだけ赤い。
「……ありがとうございます、大家さん」
返事はなかった。ヴォルフはそのまま宿の中に消えた。
看板に触れてみた。木の手触りが温かい。角を丸く磨いてくれたのは、お客さんが手を怪我しないようにだろうか。あの傷だらけの大きな手で、この小さな看板を削ったのだ。
不器用で無愛想で、何も説明しない人。でも行動だけは、嘘をつかない。
その日から、万屋の扉を叩く人が少しずつ増えた。
「あの追放令嬢に相談したら、義母から家を守ってもらえたらしい」
「法律のことなら何でも分かるんだって」
「もしかしたら、うちの揉め事も……」
噂は町を巡り、やがて町の外へも広がっていく。




