第36話 沈まないのか
グランヴェルが動いたのは30分後だった。
下がったのではなかった。向きを変えた。蒼嵐の真正面に艦首を向けた。随伴艦2隻が左右に開いた。挟む形だった。
「距離11,000メートル。速力8ノット。ゆっくり来ています」と柴田は言った。
堂島は窓の外を見た。グランヴェルの艦影が正面に見えた。幅が増していた。艦首から来ていた。
「正面から来ます」とゼロは言った。手帳を持っていた。「散開した随伴艦が左右から回り込みます。三方から囲む形です。ただ」と言って止まった。
「ただ?」
「速力が遅い。急いでいません」とゼロは言った。「観察しながら来ています」
堂島は艦橋の窓を見た。夕方の光が来ていた。海面がオレンジ色に染まっていた。珊瑚礁の青白い光がその中に混じっていた。
「蒼嵐が光っているのが見えていますか?」と堂島は言った。
「おそらく」とゼロは言った。「昼間より珊瑚礁のマナが強くなっています。夕刻から夜にかけて濃くなる時間帯があります。複合回路を通じて艦全体に広がっている光は、今は昼間の倍以上の出力です」
「グラントはその光を確認しながら来ているということですか?」
「そう思います」とゼロは言った。
「山下さん、主砲の準備をしてください」と堂島は言った。
「準備しています」と山下の声がした。「距離が遠いです。有効射程まで6,000メートルあります」
「わかりました。待ちます」
「汐さん、状態を報告してください」
「第3区画、本修理が終わりました」と汐の声がした。「第2区画の増し締めを今やっています。あと2分かかります」
「終わったら第7区画を確認してください。外板の状態が気になります」
「わかりました」
「大沼さん」
「聞こえてる」と大沼の声がした。「第6区画、押さえている。右手だけで押さえている。次の命中弾が来るまでは持つ」
「材料はありますか?」
「ある」と大沼は言った。「溶接はできない。ボルトだけで押さえる。それで足りるかどうかはやってみないとわからない」
「わかりました」と堂島は言った。
グランヴェルの斉射が再開したのは距離9,500メートルに入った時だった。
4発来た。左舷に集中した。第4区画から第6区画にかけての同じ帯を狙ってきた。
衝撃が4回続いた。床が揺れた。壁の亀裂が広がった。
「大沼さん」
「聞こえてる」と声が来た。少し遅かった。「第6区画の押さえが1箇所外れた。今から打ち直す」
「汐さん」
「第7区画に向かっています」と汐の声がした。「第6区画は大沼さんが?」
「います」と堂島は言った。「第7区画を頼みます」
「わかりました」
機関室から通信が来た。三島だった。
「機関、まだ生きてる」と三島は言った。「ただし左舷補機に浸水が来た。補機は止めた。主機だけで動いている。以上」
報告が終わった。
「速力はどのくらい落ちますか?」と堂島は言った。
「10ノットが限界になる。それ以上は主機に負担がかかる」
「わかりました。10ノットで動きます」
「了解」と三島は言った。それだけで通信が切れた。
「柴田さん、10ノット」
「入れます」と柴田は言った。「グランヴェル、距離8,800メートル。有効射程に入ります」
「針路を変えます。南東、10ノット。グランヴェルの正面を外します」
「南東、入れます」
グランヴェルが向きを変えた。蒼嵐に合わせてきた。随伴艦が左右から回り込もうとした。蒼嵐が先に動いた。珊瑚礁の際まで寄せた。右舷に珊瑚礁が迫った。
「水深8.2メートル」と柴田は言った。声が変わった。「喫水との差が1.8メートルです。これ以上は寄せられません」
「わかりました。この距離を保ちます」
グランヴェルが第2斉射を撃った。
右舷に来た。3発続いた。第2区画と第3区画。
「汐さん」と堂島は言った。
「第7区画から戻っています」と汐の声がした。走っている音がした。「第2区画と第3区画に向かいます。古川と森田に先に入ってもらっています」
「第7区画の状態は?」
「外板に歪みがありました。ボルトを増し締めしてきました。次の命中弾が来ると開くかもしれません。本修理ができていません」
「わかりました」
グランヴェルが第3斉射を撃った。
今度は前部だった。前部主砲の基部に1発、前部甲板に2発来た。
「山下さん」と堂島は言った。
少し間があった。「聞こえています」と山下の声がした。「砲身は無事です。照準器が損傷しました。手動で撃てます。精度が落ちます」
「手動で撃てますか?」
「撃てます」と山下は言った。「大沼さんから聞いていました。荒木さんは照準器が壊れた時のために、手動の感覚を毎日確認していたと。私もやっています」
堂島は何も言わなかった。
「撃てます」と山下は繰り返した。
「わかりました。距離が入ったら判断はあなたに任せます」
ゼロが計測器から顔を上げた。「浸水率、68パーセントです」と言った。「報告します。それだけです」
「わかりました」と堂島は言った。
鋼花が艦橋の入口に現れた。
輪郭が揺れていた。服が灰色を超えていた。白さがほとんど残っていなかった。髪が濡れて顔に張り付いていた。両腕の黒ずみが肩まで来ていた。足元がわずかに透けていた。
それでも立っていた。
「大丈夫ですか?」と堂島は言った。
「大丈夫ではない」と鋼花は言った。声が変わっていなかった。「でも、浮いている。沈んでいない」
「もちろんです」
「大沼さんがまだ押さえている」と鋼花は言った。「右手だけで打っている。怒りながら打っている。止まらない」
グランヴェルが第4斉射を撃った。
左舷に5発来た。これまでで最多だった。第3区画から第7区画まで、左舷全体を撃ってきた。
艦全体が揺れた。
計器が落ちた。また戻った。今度は一部が戻らなかった。
「大沼さん」と堂島は言った。
応答がなかった。
「大沼さん」
応答がなかった。
「汐さん、大沼さんと連絡が取れますか?」
「今から確認します」と汐の声がした。
10秒待った。20秒待った。
「堂島さん」と汐の声がした。
「何ですか?」
「大沼さん、艦底で倒れています」と汐は言った。声が変わっていなかった。変えていなかった。「意識はあります。右手が動いています。ボルトを握ったままです。野口さんを呼びます」
「呼んでください」と堂島は言った。「大沼さんを艦底から出せますか?」
「大沼さんが首を振っています」と汐は言った。「出ないと言っています」
「わかりました」と堂島は言った。「汐さんが大沼さんの横にいてください。大沼さんが押さえている箇所を引き継いでください」
「わかりました」
「大沼さんが離れたくないと言ったら、一緒に押さえてください。それでいいです」
「わかりました」と汐は言った。少し間を置いた。「大沼さんが、浸水率を聞いています」
「68パーセントです」と堂島は言った。
また間があった。
「大沼さんが笑いました」と汐は言った。「まだ浮いているのかと言っています」
「浮いています」と堂島は言った。「三島さん、機関の状態は?」
「機関、まだ生きてる」と三島の声がした。「左舷補機が浸水で完全に止まった。主機は動いている。以上」
「わかりました」
ゼロが計測器を見ていた。何かが変わったように見えた。
「ゼロさん」と堂島は言った。
「複合回路の出力が上がっています」とゼロは言った。「さっきまでと違います。艦底方向からの出力が急に上がりました。大沼さんが倒れた後から変わりました」
「意味はわかりますか?」
「わかりません」とゼロは言った。「ただ」と言った。「浸水箇所の近傍で出力が高くなっています。修理している場所を、回路が覚えているような動き方です」
堂島は足の裏を感じた。甲板が傾いていた。わずかだった。2度か3度だった。気づかなければわからない傾きだった。
「柴田さん、傾斜は?」
「左舷に3度です」と柴田は言った。
「カウンターフラッド。右舷第1区画、2トン、今すぐ」
「入れます」
傾斜が戻った。
グランヴェルが第5斉射を撃った。
また左舷に来た。第5区画と第6区画。大沼と汐がいる場所の真横だった。
衝撃が来た。
「汐さん」と堂島は言った。
「います」と汐の声がした。「第6区画の押さえが外れました。大沼さんと2人で押さえています。大沼さんの右手と私の両手で押さえています」
「もちますか?」
「もちます」と汐は言った。「今はもっています」
ゼロが計測器を見た。「出力が下がりました」と言った。
「下がりましたか?」
「一瞬下がって、また上がりました」とゼロは言った。「大沼さんの押さえが外れた瞬間に下がりました。汐さんが引き継いだ瞬間に上がりました」
堂島は何も言わなかった。
「人の手と連動しています」とゼロは言った。静かな声だった。驚いている声ではなかった。確認している声だった。「修理している手と、回路が繋がっています。あなただけではありませんでした」
鋼花が入口に立っていた。足元が透けていた。輪郭が大きく揺れていた。それでも顔が堂島を向いていた。
「感じる」と鋼花は言った。「汐さんの手が来た。大沼さんの手と違う。でも同じ。同じものを持っている」
「何を持っていますか?」と堂島は言った。
「沈ませたくないという気持ち」と鋼花は言った。「あなたが最初に持ってきたもの」
グランヴェルが第6斉射を撃った。
前部に2発、右舷に2発来た。
前部の1発が前部主砲の砲身に当たった。
「山下さん」と堂島は言った。
応答がなかった。
「山下さん」
「聞こえています」と山下の声がした。息が変わっていた。「砲身の先端が損傷しました。撃てます。ただし射程が落ちます。有効射程は3,000メートルになります」
「3,000メートルまで引きつけられますか?」と柴田は言った。柴田が堂島に言った。「グランヴェルを3,000メートルまで引きつけたら、随伴艦も3,000メートルに入ります。四方から撃たれます」
堂島は考えた。
「どうしますか?」
堂島は海図を見た。珊瑚礁の配置が全部入っていた。4日間計測した結果だった。
「グランヴェルに向かいます」と堂島は言った。「正面から向かいます。距離を詰めます。随伴艦は珊瑚礁に挟まれます。動ける範囲が狭くなります。全方位からは撃てません」
「グランヴェルの正面砲が全部使えます」と柴田は言った。
「わかっています」と堂島は言った。「柴田さん、針路を北北西。グランヴェルに向けてください。速力は10ノット」
「北北西、10ノット入れます」と柴田は言った。少し間を置いた。「了解です」
蒼嵐が向きを変えた。グランヴェルに向かった。
グランヴェルが第7斉射を撃った。今度は4発全部が蒼嵐に当たった。前後左右から来た。
艦橋の窓が割れた。風が入った。計器が複数落ちた。半分が戻らなかった。
傾斜が来た。右舷に5度。
「カウンターフラッド。左舷第2区画、3トン」
「入れます」と柴田は言った。計器が半分ない中で手動で操作した。
傾斜が3度に戻った。完全には戻らなかった。
「ゼロさん、浸水率は?」
「81パーセントです」とゼロは言った。
艦橋が静かになった。
「複合回路は?」
「光っています」とゼロは言った。「艦全体が光っています。浸水箇所が増えるたびに光が強くなっています。私には理由がわかりません。ただ、数値上は沈んでいるはずの艦が浮いています。大沼さんと汐さんが外板を内側から押さえています。回路がその後ろから支えています。人の手とマナが、同じ場所を一緒に押さえています。だから、沈まない」
ゼロは手帳を閉じた。
「距離は?」と堂島は言った。
「グランヴェル、5,200メートル」と柴田は言った。
「まだです。3,000を切ったら山下さんが判断します」
「了解です」
グランヴェルが第8斉射を撃った。
3発来た。左舷に集中した。
衝撃が来た。機関室から音がした。金属が歪む音だった。
「三島さん」と堂島は言った。
「機関、まだ生きてる」と三島の声がした。「左舷隔壁に亀裂が入った。浸水が来ている。今から押さえる。以上」
「人が必要ですか?」
「俺一人でやる」と三島は言った。「機関を止めるな。動いている間は俺が押さえる。以上」
通信が切れた。
「距離は?」と堂島は言った。
「3,800メートル」と柴田は言った。
鋼花が入口に立っていた。輪郭が激しく揺れていた。ほとんど透けていた。服の白さが消えていた。灰色を超えていた。ほぼ黒に近かった。
それでも顔が堂島を向いていた。目が見えた。
「痛いですか?」と堂島は言った。
「痛い」と鋼花は言った。「でも」と言った。「大沼さんが押さえて。汐さんが押さえて。三島さんが押さえて。あなたがここにいる。みんながいる」
「います」と堂島は言った。
「だから」と鋼花は言った。「まだ、ここにいる」
「3,200メートル」と柴田は言った。
グランヴェルが第9斉射を撃った。
2発来た。どちらも当たった。前部に1発、艦橋に1発。
艦橋の壁が大きく抉れた。柴田が床に伏せた。ゼロが計測器を抱えて壁に張り付いた。堂島は艦橋の柱を掴んだ。
煙が来た。
「柴田さん」と堂島は言った。
「います」と柴田は言った。床から立ち上がった。「針路を維持しています」
「ゼロさん」
「います」とゼロは言った。計測器を見た。「複合回路、まだ動いています」
「距離は?」
「2,900メートル」と柴田は言った。
「山下さん」と堂島は言った。
少し間があった。
「聞こえています」と山下の声がした。「距離2,900メートル。撃ちます」
主砲が鳴った。
蒼嵐の全体が震えた。
3秒間、艦橋が静かだった。
「命中しました」と山下の声がした。静かだった。「グランヴェルの前部主砲塔です。砲塔が動いていません」
砲声が止んだ。
グランヴェルからの砲声が止んでいた。随伴艦も止んでいた。
海が静かになった。
「針路を維持してください」と堂島は言った。「速力を落とさないでください」
「了解です」と柴田は言った。
1分が経った。
通信機が鳴った。
グラントの声がした。
「蒼嵐」と言った。
「聞こえています」と堂島は言った。
沈黙があった。5秒か10秒か、わからなかった。
「……沈まないのか、この艦は」とグラントは言った。
堂島は何も言わなかった。
「作戦を停止する」とグラントは言った。「随伴艦に伝える。攻撃を止める」
「わかりました」と堂島は言った。
また沈黙があった。
「……あなたが相手でよかった」とグラントは言った。
通信が切れた。
艦橋に海の音が来た。波の音だった。機関の音だった。
珊瑚礁の光が窓の外で揺れていた。
「汐さん」と堂島は言った。
「います」と汐の声がした。
「大沼さんの状態を教えてください」
少し間があった。「大沼さんが聞いています」と汐は言った。「終わったのかと」
「終わりました」と堂島は言った。
また間があった。
「大沼さんが、わかったと言いました」と汐は言った。「それから、野口さんを呼んでくれと言っています」
「呼んでください」と堂島は言った。
「野口さんはもうここにいます」と汐は言った。「さっきから隣にいました」
柴田が航海図を見ていた。ゼロが計測器に何かを書いていた。
堂島は艦橋の入口を見た。
鋼花がいた。
輪郭の揺れが止まっていた。まだ透けていた。服はまだ灰色だった。髪はまだ濡れていた。でも、揺れが止まっていた。
「終わった?」と鋼花は言った。
「終わりました」と堂島は言った。
鋼花は少し間を置いた。「……私は」と言いかけて止まった。
堂島は待った。
鋼花は何も言わなかった。言葉ではなかった。表情だった。43年間、一度もなかった表情が、一瞬だけあった。
蒼嵐がまだ浮いていた。




