第32話 夜明け前
艦底に降りたのは夜の11時過ぎだった。
第7区画の外板に手を当てた。冷たかった。鋼板越しに海の重さが伝わってきた。圧力ではなく重量として感じた。何トン分の海水がこの板一枚の外にあるか、計算するまでもなくわかった。
継ぎ目を指でなぞった。ハーゲンが締め直した箇所だった。金属の感触が均質だった。歪みがなかった。老船大工の手の仕事は14日経っても生きていた。
「50年持つ」とハーゲンは言った。その言葉を堂島はまだ信じていた。
第6区画に移った。舵機室の隣。追跡中に汐の班が押さえた浸水箇所だった。パッチが当たっていた。増し締めは大沼が夕方に終わらせた。手で圧力をかけた。動かなかった。問題なかった。
第5区画。機関室の側壁。熱の残骸で金属がわずかに膨張していた。点検口を開けた。臭いを確認した。潮気はなかった。浸水の兆候はなかった。点検口を閉じた。
第3区画。エーテル炉心室の前。廊下の端に立った。扉の前に温度計があった。数値を確認した。正常範囲だった。扉は触れなかった。触れる必要がない時は触れない。それが堂島の判断基準だった。
第2砲塔の回路室に入った。ゼロが最後に調整した複合回路が収まっていた。光はなかった。堂島が離れているため弱い光しか残らない。ゼロの言葉を思い出した。「回路が自分で動いています。あなたがいなくても」。堂島はパネルを開けた。接続部を一つずつ確認した。ゆるみはなかった。腐食はなかった。エーテルとマナの配管が並走していた。これだけを見ても何がどう機能するかわからないように設計されていた。ゼロの性格が出ていた。
パネルを閉じた。
前部に向かった。第2区画。第1区画。魚雷発射管の隣に立った。発射管を確認した。残り4本。手を当てた。冷えていた。使えた。
前部主砲の基部まで来た。艦首の最先端に近い場所だった。手を当てた。振動がなかった。静かだった。
北方辺境で最初にここに来た時、この砲の回路が断線していた。汐が配管の中に入った。体が細くなければ入れない場所だった。汐は入った。バイパスを繋いだ。それで砲が動いた。
今は回路が生きていた。問題はなかった。
堂島は前部甲板への出口を開けた。夜気が来た。海の匂いだった。珊瑚礁の匂いがわずかに混じっていた。
甲板に出た。
北の水平線に灯りがあった。24個。変わっていなかった。グラントの艦隊はその位置で夜を越えていた。動いていなかった。朝を待っていた。
南には珊瑚礁が光っていた。青白い光が海面の下から来ていた。43年前にこの艦が初めてここに来た時も、この光はあったかもしれなかった。
「確認、終わった?」
鋼花が甲板にいた。舷側に立っていた。袖口の黒ずみが月明かりで見えた。
「終わりました」と堂島は言った。
「全部?」
「全部です」
鋼花は海を見ていた。南の光を見ていた。「知っている」と言った。「あなたが確認した場所、全部わかる。どこを触れたか」
堂島は鋼花の隣に来た。同じ方向を見た。
「痛いところはありますか?」と堂島は言った。
鋼花は少し間を置いた。「今はない」と言った。「今はまだない」
「わかりました」
「明日は痛い」と鋼花は言った。「確実に痛い。それはわかっている」
「痛かったら言ってください」
「わかった」と鋼花は言った。「前は言わなかった。今回は言う」
堂島は北の灯りを見た。24個がそれぞれ等間隔に並んでいた。整然としていた。グラントの艦隊は常に整然としていた。北方辺境でも中央内海でも、それは変わらなかった。
「あなたは怖くないの?」と鋼花は言った。
「怖いです」と堂島は言った。
「それだけ?」
「それだけです」
鋼花は堂島を見た。表情が動かなかった。しばらく見ていた。「嘘はついてない?」と言った。
「ついていません」
「前にも怖かった?」と鋼花は言った。「北方辺境の時も?」
「怖かったです」と堂島は言った。「毎回怖かった。怖くなかった時がありません」
「それでも動いていた」
「動かなければならない状況でした」と堂島は言った。「怖さと、動くかどうかは別の話です」
鋼花は南の光を見た。少し時間が経った。「私も怖くなった」と言った。「前は怖くなかった。どうせ沈むと思っていたから。怖さは、沈みたくない時に来るもの」
堂島は何も言わなかった。
「あなたのせい」と鋼花は言った。責める口調ではなかった。「あなたが来てから、私は沈みたくなくなった。だから怖くなった」
「それはよかったです」と堂島は言った。
鋼花が堂島を見た。「よかった?」
「沈みたくない艦の方が、沈まないと思います」と堂島は言った。「私の経験では」
鋼花は少し間を置いた。何か言おうとして、やめた。また南の光を見た。
波が来た。蒼嵐が静かに揺れた。
夜明け前の4時に大沼が甲板に上がってきた。
堂島はまだ前部甲板にいた。
「まだいたのか?」と大沼は言った。
「はい」と堂島は言った。
大沼は舷側に来た。北の灯りを確認した。何も言わなかった。煙草の欠片を噛んでいた。
「第1区画の外板の点検をしましたか?」と堂島は言った。
「した。問題ない」と大沼は言った。「何時間前に終わらせたと思っている」
「報告がなかったので」
「お前が艦底を歩き回っているのを見たから言う必要がないと思った」と大沼は言った。「お前は全部確認する。確認しながら俺の仕事も確認する。わかっている」
堂島は大沼を見た。大沼は北の灯りを見ていた。
「12年と言っていましたね」と堂島は言った。「この班にいた期間」
「言った」と大沼は言った。
「最初から蒼嵐でしたか?」
「最初は天嶺だった」と大沼は言った。「中央艦隊の旗艦だ。配属3年目に蒼嵐に来た。左遷のような異動だった。理由は聞かなかった。今も知らない」
「残ったのはなぜですか?」
大沼は少し間を置いた。煙草の欠片を噛み直した。「手が慣れた」と言った。「この艦の癖に手が慣れた。第3区画の右舷継ぎ目がどの程度の振動で歪み始めるか、体でわかるようになった。第5区画の機関室は正常時にどんな音を出すか、目を閉じてもわかる。それを捨てて別の艦に行くのが面倒だった」
「それだけですか?」と堂島は言った。
大沼は何も言わなかった。少し間が空いた。「それだけだ」と言った。
堂島はうなずいた。
「今日が終わったら聞くことがある」と大沼は言った。「今は聞かない。今聞くと仕事に影響する」
「わかりました」と堂島は言った。
大沼は艦底への入口に向かった。出口のところで振り返った。「汐は班の動きを全部頭に入れている」と言った。「班長代理は形だけじゃない。今日それが必要になる」
「そうですね」
大沼は降りた。
空が白み始めた。
ゼロが艦橋から降りてきた。甲板を歩いてきた。手帳を持っていた。
「グラントが動き始めました」と言った。「現在距離22,000メートル。速力11ノット。陣形を展開しています」
堂島は北を見た。24個の灯りが広がり始めていた。陣形を変えていた。
「ラテリアとプロスペラは?」と堂島は言った。
「定位置にいます。南の珊瑚礁の際です。指示待ちです」
「各艦の艦長に伝えてください。珊瑚礁の内側に入らない。グラントを引き込む場所は蒼嵐が選びます。指示があるまで動かないように」
「伝えます」とゼロは言った。手帳に書いた。「複合回路の最終確認をします。あなたが触れておいてください」
「今から行きます」
ゼロはうなずいた。「堂島さん」と言った。
堂島は止まった。
「設計図を渡した3艦のエーテル術師が試しています」とゼロは言った。「昨夜、プロスペラから連絡が来ました。回路に光が出たと言っていました」
堂島は少し間を置いた。「どういう意味ですか?」と言った。
「これにはあなた固有の能力が必要だと言いました」とゼロは言った。「でも昨夜、別の艦で光が出た。理由はわかりません。まだ調べています」
「今日の戦闘には関係ありません」と堂島は言った。
「関係ないかもしれません」とゼロは言った。「でも報告しておきます。今日が終わった後の話になるかもしれないから」
堂島は北を見た。灯りが動いていた。「複合回路に行きます」と言った。
「わかりました」とゼロは言った。
空が赤くなった。
東の水平線から光が来た。マナリーフの珊瑚礁が赤く染まった。青白い光が赤に混じった。海の色が変わった。
柴田から通信が来た。「グラント艦隊、距離18,000メートル。速力変わらず。先頭はグランヴェルです」
「わかりました。針路を確認します。速力8ノットを維持。珊瑚礁の際に沿って東へ」
「了解です」
複合回路に手を当てた。光が出た。ゼロが計測値を読んだ。「安定しています。昨日より出力が高い」
「昨日より?」
「朝だからかもしれません」とゼロは言った。「マナが動く時間帯があります。日の出前後が強い」
「覚えておきます」
「朝に戦いが始まるのは偶然ではないかもしれません」とゼロは言った。独り言のような言い方だった。手帳に書いた。
堂島は回路室を出た。
通路で汐と会った。班の3人を連れていた。全員が防水具を携行していた。
「位置につきます」と汐は言った。
「わかりました」と堂島は言った。「第3区画と艦底を優先してください。炉心室には近づかない。それ以外は状況で判断してください」
「わかりました」と汐は言った。「先手を打てますか?」
「打てます。あなたは前回やっています」
汐はうなずいた。班の3人と艦底へ降りた。
堂島は艦橋に上がった。
柴田が海図の前にいた。荒木が砲術台にいた。三島が機関室からの報告を受けていた。それぞれの持ち場だった。
「距離は?」と堂島は言った。
「15,000メートル」と柴田は言った。「エーテル砲Mk.IVの最大射程です。グランヴェルがMk.IVを搭載していれば、間もなく射程内です」
「グランヴェルはMk.IIIです」と堂島は言った。「グラントはMk.IVを持っていない。それはアイゼンだけです」
「では12,000メートルが限界です」
「わかりました。8,000メートルまで引きます。珊瑚礁の第2経路に入ります」
柴田が海図に指を当てた。「この水路ですか?」
「そこです。水深9メートル。グランヴェルは入れません。随伴艦は重魔導巡艦3隻。喫水を考えると入れる艦は限られます。そこへ引き込みます」
柴田が計算した。「軽巡なら入れます。哨戒艦なら全艦入れます」
「その想定で動きます」
「針路変更します。東南東、8ノット」
「お願いします」
蒼嵐が向きを変えた。珊瑚礁の際を滑るように動いた。海底の地形が足の裏に伝わってきた。4日間計測した感触だった。
「グラントが動きを変えました」と柴田は言った。「随伴艦の一部が前に出ています。軽巡6隻のうち3隻です」
「来ます」と堂島は言った。「追います。山下さん、前部主砲の準備をしてください。撃つタイミングはこちらが決めます。指示があるまで撃たないでください」
「了解です」と山下は言った。
「ゼロさん、各艦に伝えてください。蒼嵐が動く。動きを見て判断してください。指示は出しません。状況を見てください」
「わかりました」とゼロは通信機に向かった。
グラントの軽巡3隻が珊瑚礁の北縁を回ってきた。射程距離に入り始めた。
堂島は海図を見た。珊瑚礁の配置が全部入っていた。4日間計測した結果だった。どこに礁があるか、どこに水路があるか、この艦橋の中で一番正確に知っているのは自分と柴田だった。
「針路をもう5度南へ」と堂島は言った。「第2水路の入口に向けます」
「5度南、入れます」
グラントの軽巡が追ってきた。
最初の砲声が鳴った。海面に水柱が上がった。遠かった。最大射程付近だった。命中しなかった。
「距離11,000メートル」と柴田は言った。
「まだです」と堂島は言った。「9,000を切ったら主砲を使います。それまでは逃げます」
蒼嵐は珊瑚礁の際を走り続けた。
海底の地形が手に伝わってきた。
今日が始まっていた。




