第26話 稲穂の別れ
翌朝、右舷第1区画の本修理を始めた。
工廠から資材が届いていた。外板の交換材と溶接棒と締め付け金具だった。大沼が資材を確認した。「使える」と言った。それだけだった。
作業は午前中かかった。汐が溶接を担当した。大沼が外側から外板を押さえた。堂島が内側から継ぎ目の状態を確認しながら指示を出した。3人の作業だった。
昼前に本修理が終わった。
堂島は補修箇所に手を当てた。動かなかった。均質だった。ハーゲンが換えた鋼板と同じ硬さではなかったが、問題のない硬さだった。
「完了です」と堂島は言った。
大沼が工具を片付けた。汐が溶接道具を洗った。いつもの手順だった。
「川端艦長は?」と汐は言った。作業が終わってから言った。
「艦長室にいます」と堂島は言った。
汐はうなずいた。何も言わなかった。溶接道具を持って詰所に戻った。
午後、堂島は第3区画の外板亀裂の経過観察をした。
昨日の追跡で防水布を当てた箇所だった。滲みは出ていなかった。亀裂の幅も変わっていなかった。本修理の必要があったが、今日は資材が足りなかった。工廠に追加発注をした。
廊下で野口文が来た。包帯を持っていた。
「堂島さん、手を見せてください」と野口は言った。
堂島は手を出した。昨夜の作業で右手の薬指の付け根が擦れていた。自分では気づいていなかった。
野口は何も言わずに包帯を巻いた。「痛みますか?」と言った。それから「……言わなくていいです。わかりますから」と言った。
包帯を巻き終えた。野口が行こうとした。
「川端さんの様子を知っていますか?」と堂島は言った。
野口は少し間を置いた。「今朝、艦長室の前を通りました」と言った。「中から声は聞こえませんでした。ただ、灯りがついていました。夜通しついていたと思います」
野口は廊下を歩いていった。
夕方、堂島が甲板に出ると、川端が艦橋の外の手すりに立っていた。
海を見ていた。ポルト・フォルティスの港だった。南の方向だった。マナリーフ海域はさらにその先だった。
堂島は甲板を歩いた。艦橋には上がらなかった。川端の視線の先を見た。水平線に何もなかった。
川端が気づいた様子だったが、何も言わなかった。堂島も何も言わなかった。
そのまましばらくいた。日が傾いていた。港の水面が橙色になっていた。
「明日、降りる」と川端は言った。
堂島は川端を見た。川端は海を向いたままだった。
「わかりました」と堂島は言った。
「全員ひ話すつもりだ」と川端は言った。「降りるのは私の判断だ。命令でも強制でもない。乗組員に選ばせるつもりはない」
「わかりました」と堂島は言った。
川端は少し間を置いた。「この艦の指揮は——」と言いかけた。
「私が引き受けます」と堂島は言った。
川端は海を見たままだった。何も言わなかった。
堂島は甲板を離れた。
夜が深くなった頃、鋼花が艦橋に現れた。
堂島はその場にいなかった。詰所にいた。翌日の修理計画を書いていた。
後から鋼花に聞いた。鋼花が自分から話した。珍しかった。
川端は艦橋で1人だった。灯りが1つついていた。書類があった。書きかけの書類だった。乗組員の記録だった。降艦者の申し送り書類だった。
鋼花が入口に立った。
川端は鋼花を見た。驚いた様子ではなかった。「お前が見えるのは堂島だけではないのか?」と言った。
「今夜は見える」と鋼花は言った。
川端は書類を見た。「なぜ今夜だけ?」
「わからない」と鋼花は言った。「ただ、今夜だと思ったので来た」
川端は書類の続きを書いた。ペンが動いていた。止まらなかった。
鋼花は艦橋に入らなかった。入口に立ったままだった。
「あなたはずっと、怖いと思ってた」と鋼花は言った。
川端のペンが止まった。
「2年前の戦闘のこと」と鋼花は言った。「あなたが交戦を続けた。僚艦が2隻沈んだ。あなたは間違っていなかったと今も思っている。でも、もう1つある」
川端は書類を見ていた。顔を上げなかった。
「救援を求めていた艦に、向かわなかった」と鋼花は言った。「その艦が沈んだ。あなたは今もその艦の名前を覚えている」
川端は何も言わなかった。
「正しかったかどうかは関係ない」と鋼花は言った。「あなたは今も、その判断を下した自分のことが怖い。また同じ判断をする自分が怖い。だからこの艦を降りる」
川端の手が書類の上に置かれたままだった。ペンを持っていた。動かなかった。
窓の外に港の灯りが見えた。水面が揺れていた。
川端がゆっくり顔を上げた。鋼花を見た。
表情が変わっていた。これまで一度も見せたことのない顔だった。崩れていた。硬い表情が崩れていた。ただそれだけだった。何かを言おうとして、言わなかった。
鋼花は入口に立っていた。「正しかったと思う」と言った。「あの判断も、今夜の判断も」
川端は鋼花を見ていた。
「この艦は沈まない」と鋼花は言った。「あなたがいなくても、あの人がいるから」
川端は少し間を置いた。「……生き残れ」と言った。
鋼花は少し間を置いた。「あなたも」と言った。
川端は書類に視線を落とした。ペンが動き始めた。
鋼花は艦橋を離れた。
翌朝、堂島が起きた時、川端はすでに甲板にいた。
私物の袋が1つ、桟橋に置いてあった。小さい袋だった。
川端が全員を後甲板に集めた。280名から3名が降りていたので277名だった。
「私は今、退艦する」と川端は言った。それだけだった。「理由は個人的な問題だ。この艦の問題ではない」
277名が黙って聞いていた。
川端は乗組員を一度見渡した。何も言わなかった。艦橋を向いた。艦橋を見た。それから桟橋に向かった。
袋を持った。桟橋を歩いた。
堂島は甲板から見ていた。
川端が桟橋の端で止まった。振り返らなかった。少し間を置いた。それから歩き続けた。港の建物の方向に消えた。
後甲板が静かだった。
波の音があった。
誰かが動いた。それから少しずつ動き始めた。持ち場に向かった。声はなかった。
大沼が堂島の隣に来た。「次はどうする?」と言った。
「修理があります」と堂島は言った。「第3区画の外板亀裂の本修理です。工廠から資材が届いたら始めます」
大沼はうなずいた。「わかった」と言った。詰所に向かった。
甲板に堂島が残った。
桟橋を見た。川端の姿はなかった。袋も持っていった。桟橋に何も残っていなかった。
柴田が艦橋から顔を出した。「針路の確認をしたいのですが?」と言った。「どなたに?」
堂島は艦橋を見た。「私に言ってください」と言った。
柴田はうなずいた。艦橋に戻った。
堂島は甲板に少し立っていた。南の方向を見た。水平線があった。マナリーフ海域はその先だった。どこへ向かうかはまだ決めていなかった。
艦橋に上がった。
その夜、鋼花が詰所に来た。
いつも通り入口に立っていた。袖口の黒ずみが少し薄くなっていた。昨夜より薄かった。
「川端さんから聞きました」と堂島は言った。「昨夜のことを」
「話した?」と鋼花は言った。
「話してくれました」
鋼花は入口に立ったままだった。「怖かったんだと思う」と言った。「あの人は最後まで正しかった。でも怖かった。それだけ」
堂島は修理計画の紙を見た。「あなたが川端さんの前に現れたのは昨夜だけですか?」
「昨夜だけ」と鋼花は言った。「またいつか現れるかどうかはわからない」
「なぜ昨夜だったのですか?」
鋼花は少し間を置いた。「あの人が降りると決めた夜だったから」と言った。「決めた夜には見えた。決める前には見えなかった」
堂島は鋼花を見た。「川端さんは生き残ると思いますか?」
「大丈夫」と鋼花は言った。「あの人はそういう人」
堂島は紙に視線を戻した。修理計画の続きを書いた。
鋼花は入口にいた。しばらくそのままだった。
「次はどこへ?」と鋼花は言った。
「まだ決めていません」と堂島は言った。「修理が終わったら考えます」
鋼花は少し間を置いた。「修理は終わらない」と言った。
「そうです」と堂島は言った。「だからまだ決めていません」
鋼花は通路の外を見た。それから入口から離れた。通路を歩いていった。足音が遠ざかって、消えた。
堂島は修理計画を書き続けた。第3区画の本修理。第6区画の補強。複合回路の定期点検。やることが並んでいた。
港の外は静かだった。




