第15話 中央内海
中央内海に入ったのは5日目だった。
海の色が変わった。南のマナリーフのような緑がかった青ではなく、深く透明な青だった。水深が深い。底が見えない色だ。
「ミドルシーです」とゼロが甲板に出て言った。「四強全ての船が通る海域です。ここから先は旗が増えます」
柴田が双眼鏡を持って水平線を確認していた。「商船が3隻。ヴァランシア旗。東へ向かっています」
「通常の交易路です」とゼロは言った。「問題ない」
川端は海図を見た。テルファンまであと9日。
9日間、この海域を通り抜ける。各国の船と同じ海を通る。蒼嵐は瑞穂の旗を掲げている。敵対する可能性がある旗が同じ海にある。柴田が交代なしで水平線を見続けるつもりだと、堂島は柴田の目を見てわかった。
汐は毎日溶接の練習をしていた。
廃材の鋼板を甲板に出して、堂島が溶接箇所を指定した。汐が溶接して、堂島が継ぎ目を手で確認した。
「ここが薄いです」と堂島は言った。継ぎ目の一点を指した。「溶接棒の送りが速すぎました。もう一度やってみてください」
汐はもう一度やった。今度は遅すぎた。
「速さじゃなくて、溶融池の大きさを見てください。池が均質に広がっているかどうかです」
汐がもう一度やった。
堂島が確認した。「均質になりました」
「手で触れてもわかりますか?」と汐は言った。
「わかります。均質な継ぎ目は温度が一定です。薄い箇所は少し冷たいので」
汐は継ぎ目に手を当てた。しばらく触れていた。「……少しわかります」
「続けていればはっきりわかるようになります」
汐は頷いた。それから少し間を置いた。「ハーゲンさんが言っていたことと同じですか?」
「同じです」と堂島は言った。「あの人から教わりました」
「ハーゲンさんはどこで覚えたんですか?」
「50年かけて覚えたと言っていました」
汐は継ぎ目に手を当てたまま少し考えた。「私は何年かかりますか?」
「さあ……」と堂島は言った。「続けていればわかる日が来ます」
その日の夕方、川端が甲板に来た。
汐が1人で練習を続けていた。川端は少し離れた場所から黙って見ていた。堂島も気づいて何も言わなかった。
汐が溶接を終えて継ぎ目に手を当てた。自分で確認している。3ヶ月前にはなかった動作だ。
川端が堂島の方を見た。何も言わなかった。ただ見た。それだけで艦内に戻った。
堂島は汐の手を見ていた。
7日目、ゼロが艦橋に来た。
計算紙を持っていた。「T艦部隊の動向です」と言った。「情報網から入っています。中央内海の北側でT-25の目撃情報が複数出ています。ただし潜水艦なので現在位置は特定できません」
川端は海図を見た。北側と現在位置の距離を確認した。
「テルファンまで何日だ?」
「このままの速力で7日です」とゼロは言った。
「T-25がテルファンを狙う理由は?」
「自由都市連合は四強全てと取引しています。アイゼンとも取引しています。直接攻撃はしないと思います。ただ、テルファンに停泊している瑞穂の艦は別の話です」
川端は海図を見たまま言った。「テルファンで修理中に来た場合は?」
「修理途中で出港するしかありません」とゼロは言った。
川端は少し間を置いた。「わかった」と言った。海図から目を離さなかった。
堂島は川端を見た。川端が「わかった」と言うときの間の長さで、何を考えているかが少しわかるようになっていた。今の間は短かった。すでに想定していた、という間だった。
8日目の夜、堂島は艦底区画の定期点検をしていた。
懐中電灯で継ぎ目を確認していた。ポルト・フォルティスで溶接した箇所は問題なかった。古い継ぎ目も安定していた。
そのとき、何かを感じた。
音ではなかった。振動でもなかった。手のひらが外板に触れていた。その外板を通して、何かが伝わってきた。遠くで何かが動いている。水の中を、重いものが動いている。
機関の振動とは違う。潮流とも違う。
外板から手を離した。もう一度当てた。まだある。30秒ほどで消えた。
手帳に書いた。「8日目夜・艦底外板・何かを感じた。水中の動き。持続30秒。原因不明」
閉じた。立ち上がった。艦底区画を出た。
通路で大沼とすれ違った。大沼も点検の帰りだった。工具袋を持っていた。
「何かあったか?」と大沼は言った。堂島の顔を見て言った。
「何もありませんでした」と堂島は言った。
大沼は止まった。堂島を見た。12年この艦にいる人間の目だった。何かを知っている目だった。何も言わなかった。
通路を歩いた。3歩歩いて止まった。振り返らずに言った。
「次の点検、一緒に回るか」
堂島は少し間を置いた。「お願いします」
大沼は振り返らなかった。そのまま歩いた。
10日目、嵐が来た。
2日間、蒼嵐は嵐の中を進んだ。波高5メートル。速力が落ちた。テルファンへの到着が2日遅れた。
甲板への出入りが禁止された。汐の溶接練習もできなかった。乗組員が船室に籠もった。
堂島は各区画を回り続けた。嵐のとき、継ぎ目に負荷がかかる。古い艦ほどその影響が出やすい。ポルト・フォルティスで溶接した箇所を重点的に確認した。問題は出なかった。
ただし12日目の夜、また感じた。
今度は嵐の揺れの中だった。外板から伝わってくる感触が、機関の振動と波の衝撃に混ざって判別しにくかった。それでも確かにあった。
方向は後方だった。
手帳に書いた。「12日目夜・嵐の中・後方から。前回より近いかもしれない。確認できず」
嵐が明けた翌朝、鋼花がいた。
甲板だった。嵐が去った後の海を見ていた。白い服が風に揺れていた。珍しく朝にいた。
「嵐の中でも出てきますか?」と堂島は言った。
鋼花は海を見たまま言った。「嵐のときの方が、この艦がどこにいるかわかる」
「どういう意味ですか?」
「揺れると、骨格が動く」と鋼花は言った。「動くとわかる。静かなときは動かない。動かないと感じにくい」
堂島は甲板の鋼板を踏んだ。揺れていた。嵐の余波がまだ残っていた。
「嵐の後は傷みますか?」
「傷む」と鋼花は言った。「でも嵐が来なければ、傷んでいる場所がわからない」
堂島は手帳を出した。書こうとして、止めた。何を書けばいいかわからなかった。
鋼花が堂島を見た。「書かないのか?」
「どう書けばいいかわからなかったので」
鋼花は少し間を置いた。「……嵐は診断」と言った。「修理は治療」
それだけ言って、消えた。
堂島は手帳に書いた。「嵐は診断。修理は治療」
閉じた。
14日目の午後、テルファンが見えた。
予定より2日遅れていた。水平線に港が見えた。近づくにつれて規模がわかってきた。大きかった。ポルト・フォルティスの5倍以上の桟橋が並んでいた。各国の旗を掲げた艦船が何十隻も停泊していた。
「大きな港ですね」と汐が言った。
「自由都市連合の主要工廠です」とゼロは言った。「世界中の艦船が修理に来ます」
大沼が煙草の欠片を噛みながら桟橋を眺めていた。「腕が試されるな」と言った。誰にでもなく言った。
「大沼さんの腕なら問題ありません」と汐は言った。
大沼は何も言わなかった。ただ港を見ていた。
堂島も港を見た。それからもう一度、後方の海を見た。
何も感じなかった。今は感じなかった。




