第16話 大海原の忘れ物
言葉を失っている翠雨の額に龍王はそっと手をかざした。小さな光の粒が、皮膚の内側へと吸い込まれていく。
「今、魔術を使ってみた……もう二度と、その名前を忘れないように」
彼の凛とした声だけが降り注いだ。
「君の名前を、もう一度私に教えてくれないか?」
翠雨は突然のことに思わず後ずさりをした。額に残る淡い熱を確かめてから、龍王を見上げる。一文字ずつ辿るように口を開いた。
「王階、翠雨……きみしな、すいうっ!」
翠雨の瞳が春の陽だまりを吸い込んで輝き出す。湧き上がる喜びをそのまま言葉にした。
「不思議だっちゃ……まるで、固くて重い石が頭の中に置かれたみたいだ。きっと嵐が来ても、絶対に吹き飛んだりしない。おれの名前が、ここにあるって確信できるよ」
足元に点々と咲く小さなタンポポが風になびいた。飛び立った綿毛が、都の桜並木に向かって消えていく。
龍王は視線を落としながら、呆れたように呟いた。
「『王階』……強烈な苗字よなぁ。漢字と読みの説明が面倒すぎる。一度言えば、すぐ覚えてもらえるけれど」
翠雨は彼の理解の速さに何度も頷いた。
「その通りだっちゃ! まず、王を『きみ』って呼んでもらえなくて……」
「そこだけで何度も聞き返される。階を『しな』と読むことすら珍しいよな……なんて無駄な会話が生まれて、自己紹介そのものが苦痛だった」
「分かるなぁ……お前は王階一族の理解者だっちゃ、急に仲間意識が生まれたよ。お前の事は大嫌いだけど、これ以上性格が歪まないように【龍厳】って呼んでやる、だからもう少し優しくなれっちゃ」
「それは嬉しいよ。王階同士仲良くやろう」
翠雨は明後日の方向を見て固まった。この世界で【戦利龍王将軍】に成り代わっているリュウの弟【龍厳】へと視線を戻す。
「……ん? 【王階】同士……?!」
「私の本名は【 王階 龍厳 】……苗字が、翠雨と同じなんだ」
翠雨は目を丸くして口をパクパクとさせた。
「おれっ……自分以外に『王階』なんて会ったことがなくて……龍厳もリュウと同じで京都生まれなんだろ? おれの先祖も昔は都にいたって聞いたし、もしかしたら、どこかで血が……」
「繋がりは一切ない。うちの祖父が、本当の名前を隠すために君の一族の苗字を勝手に名乗ったんだ……いわば偽物だよ。私と兄に流れているのは、よそから紛れ込んだ異物の血だ」
【龍厳】の瞳はよく見ると緑がかっていた。見たこともないほど高い鼻筋、大きな肩幅に、スラリと伸びた長い手足……翠雨の表情が凍りつく。
「異物の……血?」
丘から見下ろした龍ノ國……その遥か先には大海原が広がっていた。
野花が千切れる鈍い音が響く。龍厳がタンポポを踏みにじったのだ。翠雨は大地に目を凝らしながら声を上げた。
「お前……っ、それは固有種だっちゃ。今では滅多に見られないような貴重なタンポポだよ……どうして踏みにじるような事をする?」
「結果が全てだから。強者が生き残るべきなんだよ」
龍厳は天を仰ぎながら大きく伸びをした。
「生まれ変わりなんてものを信じる人間がいることも、今は可笑しいとは思わない。祖父が利己的な成功者で、その孫である自分自身も王を名乗るほど傲慢な中身をしている……何もかも、私が今、この世界で成り代わっている【龍王】と同じなんだ」
風だけが相槌を打った。淡々とした声が、真実を連ねていく。
「金綺羅幕府・三代目将軍【戦利龍王】……彼もまた、皇帝家を利用して自らを王と名乗った。自分以外を、勝つための将棋の駒としか思えないから……だから黎明翠を利用するだけして、簡単に捨てるような真似ができたんだ」
龍厳は、翠雨の顔を見ないまま静かな声で続けた。
「だが、私は君を見捨てたり出来ない……そこだけが唯一、異なっている」




