第19話 寄り添う春
翠雨は床に落ちた桜の花びらをすくい上げた。愛おしむように触れ、再び大切そうに懐へしまいこんだ、その時のことだ。
『風呂、入ッテルカ?』
ロボ塚くんが、久々に口を開いたのだ。
「風呂? 入ってるよ……それ、身体からあんまりいい匂いがしない時に言う言葉だっちゃ」
翠雨は部屋の隅にある小さな浴室を見つめた。
「でも、確かに湯船に浸かると気分が晴れたりするよな……それにしても、格安ホテルなのに備え付けの風呂があるなんて珍しいな」
「そういう部屋をあえて選んだ」
リュウの言葉を聞いた翠雨は不思議そうに問いを重ねた。
「どうしてだよ。浴室なしの部屋なら、もっと安く済んだんじゃ……」
「共用風呂は危ないだろ」
翠雨は、自分の長く美しい髪に目を落とした。少し絡まった毛先を指で整えながら、リュウの横顔を見つめる。
「リュウ、ありがとう」
二人は順番に入浴を終えると、ようやくそれぞれの布団に横たわった。宿のロゴが入った寝間姿で、翠雨はロボ塚くんを抱きしめている。
隣のリュウは横になった途端、目を閉じて動かなくなった。翠雨は、そっと囁く。
「リュウ、おやすみ」
返事はなかった。
「リュウ……おやすみ〜!」
「……」
翠雨は深く息を吸い込み、腹式呼吸で声を張った。
「リュウ! おやすみ〜〜〜!!! ……返事くらいしろっちゃ」
「なんで起こすねん! そのビブラートも辞めろ」
リュウは笑いながら飛び起きた。不安げな翠雨の顔を覗き込むと、彼は隠し持っていたスマートフォンを取り出した。
「ポケットに入れていた物は、この世界にも持ち込めたらしい……俺様が撮った写真でも見るか?」
「見せてくれ! 久々に現実世界の物を見たよ……それだけで、こんなに安心するんだな」
翠雨はロボ塚くんにも声をかける。
「お前も一緒に見よう。ほら、スマホだぞ」
『ぽ〜う、忍ポポポゥ!』
「……『ぽぅぽぅ』しか言わなくても、こいつの感情が分かるようになってきたな。リュウ、ロボ塚も見たいってさ」
リュウは優しく微笑むと、翠雨とロボ塚くんにスマホの画面を向けた。安っぽい電球が照らす部屋の中で、液晶の画面が光る。
「これは左遷ヶ島で撮った写真だ。コンビニエンスなお店【ンビニ】の看板犬……柴犬【サクラ】と、雑種の【ンボ】、二匹合わせて【サクランボ】だ」
翠雨は瞳をキラキラと輝かせた。ロボ塚くんも楽しそうに「ぽぅぽぅ」と音を漏らしている。
「リュウ、お前天才だな! なんで【サクラ】と【ンボ】なのか不思議だったんだよ……二匹の名前を合わせると【サクランボ】になってるってことか! なあ、リュウは知ってる? 【ンボ】の方が後に来た犬なんだ」
「それくらい分かるわ。柴犬サクラが先におったから、取ってつけたようにンボにしたんやろ」
翠雨の笑顔を見たリュウは、スマートフォンの画面を消した。
「翠雨……寝るか」
「そうだな」
二人は手を繋ぎながら、穏やかな顔で眠りについた。その真ん中には、満足げなロボ塚くんが挟まっている。
深夜……
翠雨の寝相の悪さに突き飛ばされ、リュウは目を擦りながら身を起こした。
ふと、隣で眠る翠雨の首筋が目に入る。そこには、獣に急所を狙われたような、謎の古傷が刻まれていた。
その傷のすぐ隣には、翠雨が懐にしまっていたはずの桜の花びらが、寄り添うようにこぼれ落ちていた。リュウは指先でその花びらを拾い上げると、備え付けの河原地区のパンフレットにそっと挟み込んだ。明日には、小さな押し花になっているはずだ。
リュウは翠雨の布団をかけ直すと、彼を起こさないよう静かに布団を抜け出した。窓際の椅子へ向かい、スマートフォンの設定画面を開く。そこには、彼の本名が記されていた。
【 ユーザー名 王階 龍優 】
画面の端に表示された時刻は、リュウがこの世界へ引きずり込まれた四月九日の夕方で止まったままだ。しかし、バッテリーの残量だけは静かに減り続けている。
リュウはスマホの電源を切ると、椅子に腰かけたまま浅い眠りについた。




