第18話 桜の墓場とリュウ
翠雨は立ち上がり、布団に放り投げていた肩掛けバッグのもとへ向かった。どうやらロボ塚くんの汚れが気になる様子だ。
リュウが福引で貰ってきたおしりふきを手に、再び椅子に腰掛ける。翠雨はロボ塚くんの服を脱がせると、毛に絡まった泥を丁寧に拭い始めた。
「おれは、リュウがいなかったら今頃どうなっていたんだろう。おれはリュウに沢山救われてるよ……ほら、このおしりふきだって役に立っとるしな」
翠雨はリュウに優しく微笑みかけ、この世界の「正体」について想いを馳せた。
「もしリュウの言う通り、ここが黎明翠の創り出した物語の世界だとしたら……黎明翠が実際に出会った人物をモデルにしたキャラクターが、たくさん登場してるってことだよな。支援者だった戦利龍王将軍が出てきたり、主人公が自分自身だったり。この世界にいる間に、歴史の謎が少しだけ解けるかもしれないよな」
リュウは窓の外の闇から目を逸らし、椅子に深く背を預けた。
「きっと、自分の人生を振り返りながら執筆した作品だろうな……だが、何かトラブルがあって戦利龍王と黎明翠は、この物語から消されてしまった……まるで、誰かの悪意が加えられたように」
「リュウの言う通りだっちゃ……海底の財宝だって、誰かが龍王将軍に嫌がらせしたみたいに沈められてた。人間の黒い部分が、たくさん絡んでいる気がする」
翠雨はカーテンをきっちりと閉め、外の闇を遮断した。すかさずリュウに問いかける。
「それにしても変な世界だよな。おれの知り合いにソックリな人たちにも会ったんだよ。その人たちは、今も現実世界にいるはずなのに、不思議だろ?」
店主に似た情、父親に瓜二つな刀武。
リュウが路地裏で買ってくれたこの服の隙間には、いつの間にか桜の花びらが紛れ込んでいた。翠雨はそれを手のひらに乗せ、目を落としながら呟く。
「実は『生まれ変わり』は実在して、似た姿形のまま、全く違う環境で何度も生まれて、その度必死に生きて……そうやって繰り返し学び合っているのかな」
翠雨は桜の花びらを、宝物のように懐へとしまった。リュウは、自分が見た世界だけを語り始めた。
「確かに無茶苦茶な世界だよな。カメラもないのに、アニメーションを見かけた。紙芝居の絵が、生きているみたいに動いていたんだ」
部屋を舞っていた大きな埃が、床に落ちて見えなくなった。それだけで、薄汚れた安宿の景観が別物のように感じられる。翠雨は遠い目をしながら、話を繋いでいった。
「工芸品だって、埃を被ったり劣化したりすれば、当時のまま残る事は難しいよな……この世界の文明が狂って見える理由も、そういうことなのかな」
ベッドの安物のシーツが、海のように波打って見える。翠雨は海底に沈んでいた財宝を思い出した。
「リュウ……京都の海底には、戦利龍王の財宝が眠っていて、そこには黎明翠が書いた物語が『形のないお化け』みたいに一緒に沈んでいる……そんな気がするんだ。最後に見えた金の龍神像も、なんだか泣いているように見えた。この物語は、ずっと完結を待ち続けているのかもしれない」
翠雨は椅子から身を乗り出し、リュウを真っ直ぐに見つめた。
「おれは、明日も明後日も、リュウと一緒にいたい。リュウがいれば、この世界から抜け出せる気がするんだ。転生寺にだって、きっと勝てる。リュウとなら、なんだって出来る気がするんだ」
沈黙がこの場を支配していく。
リュウは真剣な面持ちで口を開いた。
「……パン屋でも開くか。看板商品は、酸っぱくて硬いパン」
「真剣に聞いてくれよ! ……でも、お店を一緒に経営するのは楽しそうだな。食べ物で人を幸せにする大人は、おれの憧れだっちゃ」
リュウは迷いのない表情で呟く。
「俺は、自分を犠牲にできる大人に憧れる」
彼の金髪が、隙間風に微かになびいた。浮世離れした、雄々しい横顔を見つめ、翠雨は喉の奥が震えるのを感じた。
「……怖いことを言うなよ」
リュウは翠雨の方を振り返り、ただ大人びた表情で笑っている。懐にしまっていたはずの桜の花びらがはらりと落ちた。終わりばかり考えてしまう。
「リュウ……おれを置いていくな」




