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第91話:湯けむりの中の哲学

湯煙の向こう側、心地よい静寂に包まれるひととき。

一日の熱狂を癒やすべく訪れた場所で、楓は大人としての「あるべき姿」と、それとは正反対の「衝撃のこだわり」を目の当たりにします。

不器用な彼らの夏が、また少しだけ深まっていく様子をどうぞご覧ください。


 いいながめ台から車で坂を降りてすぐ。俺たちは、山あいに佇む『遊湯ぴっぷ』に到着した。



「わぁ、立派な建物! 早く入りたい!」


「さつき、そんなに急がないの。……でも、確かに楽しみだね」



 はやる気持ちを抑えきれない二人の姿に、俺は自然と口元が緩む。

 受付で人数分の貸しタオルセットを受け取り、二人に手渡した。



「はい、これ。忘れ物しないようにね。ゆっくり入っておいで」



 俺が優しく声をかけると、二人は嬉しそうに頷いてエントランスの奥へ向かった。



 光明石の湯か……。

 大浴場、庭園風呂、寝風呂、ジャグジー。


 高い天井に水音が響く大浴場に浸かると、全身の力が抜けていくようだった。



「……ふぅーーーー……」



 光明石の成分が、酷使した腕にじわりと熱を届けてくれる。

 隣で目を閉じていた雅人先生が、静かに切り出した。



「竜胆。お前、音大は考えてないのか?」



「……正直、考えたことはあります。でも、不器用で頑張るだけが取り柄の自分が、音だけで食っていけるとは思えなくて」



「不器用だからこそ、伝えられることもあるんだぞ」



 雅人先生は目を開け、湯気で霞む天井を見上げた。



「学校の先生になれば、吹奏楽部を持って、生徒と一緒に一から音を作ることだってできるんだ。うまくいかない奴の気持ちがわかるお前なら、失敗したあとの『その先』に付き合えるだろ?」



 先生の言葉が、お湯のように心に染みた。


 比布の空の下で中学生たちが見せてくれた笑顔。あの光景の続きを、いつか自分で作れるかもしれない。



「……自分にも、そんな資格があるんでしょうか」



「資格なんて、これから作ればいい。タクトを振るお前の姿、なかなか悪くない景色だと思わないか?」



 先生はそう言って、俺の肩を力強く叩いた。



 ……が。そんな感動的な余韻は、脱衣所に戻った瞬間に吹き飛んだ。



「……えっ。雅人先生、ブリーフ派なんですか? 派手派手言ってたのに……」



 あまりの衝撃に、つい言葉が漏れた。

 あんなにカッコよく将来を語っていた人が、あまりに堂々とした「白ブリーフ」姿だったからだ。



「なんだその目は! この支えとフィット感が、俺に安心感と自信をくれるんだよ!」



「自分はトランクスの自由こそが、責任感に繋がるかと思ってましたけど」



 雅人先生の熱意に、俺も情熱で答えたのだった。



 ロビーで合流したハルちゃんとさっちゃんは、頬を林檎のように赤くしていた。



「……何、二人とも。そのやり遂げたような顔は」



「いや、ちょっとな。男同士のこだわりについて話してたんだ。それよりも夕食にしよう。ここのご飯は旨いんだぞ。今日は俺の奢りだ、気にするな!」



 雅人先生が意気揚々と案内してくれたのは、施設内にあるお食事処だった。

 広い休憩所には、開放的なテーブル席と、足を伸ばしてくつろげる広々としたお座敷が広がっている。



「やったー! ……わぁ、美味しそうなものがいっぱい! 葵、楓、見て! ザンギがあるよ、ザンギ!」



「本当だ、お店の一押しみたいだね。……私は、地元の人に人気っていう醤油ラーメンにしてみようかな」



 ハルちゃんも少し上気した頬で、楽しそうにメニューを選んでいる。

 結局、俺たちはザンギにラーメン、そして山盛りの白飯を囲むことになった。


挿絵(By みてみん)


 運ばれてきたのは、ツヤツヤに輝く炊き立てのご飯。

 比布で丹精込めて育てられた『ななつぼし』だ。



「比布って『ゆめぴりか』が有名だけど、ここは『ななつぼし』なんだね」



 さっちゃんがふと気づいたように呟くと、雅人先生が「わかってるじゃないか」とニヤリと笑った。



「ゆめぴりかはそれだけで完成された主役だが、定食やラーメンには、この『ななつぼし』のさっぱりした甘みが一番合うんだよ。おかずを引き立てる、最高のパートナーなんだ」



「なるほど……。主役を支えるための、あえての選択ってことか。なんだか、吹奏楽の伴奏みたいだね」



 俺がそう言うと、ハルちゃんが「楓、いいこと言うね」と小さく笑った。



 濃いめの味付けでジューシーなザンギ。

 香ばしい湯気が立ち上る醤油ラーメン。

 それらを受け止める、地元産の白飯。


 湯上がりの空腹に、これ以上の贅沢はなかった。



 美味しい食事を囲めば、話題は自然と今日の演奏のことに。


 プロと音を重ね、自信をつけた二人の瞳は、夜の窓に映る灯りよりも眩しく輝いていた。



「……今日は本当に、いい一日だったな」



 俺が小さく呟くと、雅人先生が満足げに頷いた。



「ああ。竜胆、さっきの話、忘れるなよ。お前が振るタクトの先にどんな景色が広がるか、俺は楽しみにしてるからな」



 先生の言葉と、お腹から満たされていく温かな幸福感。


 比布の風に乗って、俺たちの不器用な夏は、確かな一歩を刻み始めていた。


最後までお読みいただきありがとうございます。


さて、本作は比布町長とのコラボ企画として執筆しております。

今回登場した「遊湯ぴっぷ」の光明石の湯や、地元の方に愛される「ななつぼし」のご飯にザンギ……これらはすべて、取材を通じて肌で感じた比布町の日常にある贅沢です。


【感謝を込めて】

村中町長、そしてこの物語を繋いでくださったすべてのご縁に感謝します。

比布町の「ひたむきで温かい」空気感。

物語はここから、さらに熱を帯びていきます!


「温泉とご飯のシーンに癒やされた!」「楓の将来が気になる!」と感じていただけたら、

ぜひ【ブックマーク】や【感想】で応援をお願いします!

皆様のリアクションが、物語を次なる旋律へと繋ぐ力になります。


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