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『承認欲求強めの最強勇者、魔法動画でバズって前世のヒロインたちを召喚してしまう~今世の幼馴染が管理しきれないほど愛が重すぎる~』  作者: 悪癖


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第73話 確保対象、一ノ瀬晴人

 その少女は、目の前に映し出された少年の顔を、何の感情もなく見つめていた。


 一ノ瀬晴人。


 十七歳。


 私立青葉高校、二年生。


 動画投稿者。


 そして――確保対象。


「もう一度、最初から」


 暗い部屋の中で、低い男の声が響いた。


 壁一面の大型モニターに、次々と映像が切り替わっていく。


 教室。


 校門。


 駅前。


 動画撮影の現場。


 生配信。


 食事。


 友人たちとの会話。


 学校生活の何気ない一場面まで、すべてが記録されていた。


 その中央にいるのは、いつも同じ少年だった。


「対象、一ノ瀬晴人。十七歳。青葉高校二年」


「身体能力、極めて高い」


「映像上では説明不能な現象を多数確認」


「ただし、一般社会ではすべてCG、VFX、特殊撮影として認識されている」


「周辺人物との関係は?」


 男が尋ねる。


 少女は即座に答えた。


「最重要人物が四名」


 画面が切り替わる。


「如月結衣。幼少期からの友人。動画活動における運営担当。対象との接触時間が最も長い人物の一人」


 次。


「西園寺聖奈。巨大財閥、西園寺グループの令嬢。資金、企業、人脈を担当。対象への忠誠度は極めて高い」


 次。


「剣崎凛。女子高校生。護衛担当。身体能力が非常に高く、対象の周辺警護を担当」


 最後。


「黒沼摩夜。情報、通信、ネットワークを担当。最も警戒すべき人物」


 そこで少女の声が一瞬も揺れなかった。


「対象を確保する際、最初に排除すべきは彼女です」


「理由は?」


「こちらの行動を事前に察知する可能性があるため」


 男は満足そうにうなずいた。


「正解だ」


 画面には、さらに別の少女が映った。


「なお、最近になって追加された人物がいる」


「猫宮陽葵」


 少女は名前を読み上げる。


「人気配信者。対象の動画活動へ正式加入。ライブ配信、視聴者交流を担当」


「問題は?」


「対象への精神的依存が強い」


「ならば?」


「対象へ危険が迫った場合、予測不能な行動を取る可能性があります」


「よろしい」


 男が手を叩いた。


「覚えろ。顔だけではない。声、歩き方、生活習慣、交友関係。対象へ近づく人間の全てを覚えろ」


「了解」


 少女は答えた。


 その頭の中へ、情報が次々と流し込まれていく。


 一ノ瀬晴人。


 如月結衣。


 西園寺聖奈。


 剣崎凛。


 黒沼摩夜。


 猫宮陽葵。


 学校。


 自宅。


 撮影場所。


 移動経路。


 警備体制。


 動画投稿の時間帯。


 生配信の予定。


 友人関係。


 家族構成。


 全てが「任務に必要な情報」として整理されていく。


 少女の名前は、四月一詩音。


 だが、この部屋にいる者たちは誰も彼女をそう呼ばない。


「工作員番号十一」


「はい」


 詩音は短く返事をした。


「お前たち十名が今回の実行部隊だ」


 部屋の左右に並んでいた九人が、一斉に立ち上がる。


 年齢も性別もばらばらだった。


 軍人のような男。


 医療知識を持つ女。


 運転を専門とする者。


 電子機器を扱う者。


 そして、詩音と同じように感情を抑え込まれた工作員。


 合計十名。


 その後ろには、今回の教導役兼監視役として選ばれた男が立っている。


「お前たちは、フランス共和国を拠点とする我々の日本作戦班だ」


 男は淡々と告げた。


「我々は一つの国だけで活動しているわけではない」


 世界地図がモニターへ映し出される。


 ヨーロッパ。


 中東。


 アジア。


 アフリカ。


 南北アメリカ。


 そこへ赤い点が次々と灯った。


「世界各地に支部がある」


「表向きは警備会社、物流会社、調査会社、民間軍事会社など、別々の組織として存在している」


「しかし、その全てが同じ命令系統へつながっている」


 赤い点が日本へ集まる。


「ここが日本支部」


 東京。


 大阪。


 福岡。


 札幌。


 複数の拠点が表示される。


「今回の作戦は、この日本支部の人員を使う」


 詩音は地図を見る。


 そこには、実行部隊以外にも多数の人間が登録されていた。


 連絡係。


 運搬係。


 医療担当。


 資金管理。


 情報処理。


 施設管理。


 監視要員。


 日本支部だけでも、実行部隊とは別に数十人規模の人間が動いている。


「目的は単純だ」


 男の声が響く。


「一ノ瀬晴人を確保する」


 画面いっぱいに、ハルトの笑顔が映し出された。


 動画の中で、少年は楽しそうに笑っている。


『これ絶対バズるって!』


 そんな声まで再生された。


 詩音は、それを無表情に見つめた。


「抵抗された場合は?」


「可能な限り生存させろ」


「理由は?」


「価値があるからだ」


 男は即答した。


「一ノ瀬晴人は、世界中のどの企業よりも、どの兵器よりも、どの国家機密よりも価値がある」


 画面が切り替わる。


 動画の再生数。


 登録者数。


 関連企業。


 経済効果。


 世界中で起きた騒動。


「本人は自分の価値を理解していない」


 男は笑った。


「だからこそ、我々が理解してやる」


 詩音は黙って聞いていた。


 その言葉に疑問を抱くことはない。


 与えられた情報を覚える。


 命令を理解する。


 任務を遂行する。


 それだけだった。


「工作員番号十一」


「はい」


「お前は対象へ最も近づく役割を与える」


 詩音の目が、ほんのわずかに動いた。


「対象の周囲へ自然に入り込め」


「了解しました」


 その返事に迷いはなかった。


 男は満足そうにうなずく。


「では、最後の確認だ」


 モニターに、再びハルトの写真が映る。


「確保対象は?」


 詩音は答えた。


「一ノ瀬晴人」


「任務は?」


「確保」


「目的は?」


「我々の管理下へ移送すること」


「感情は?」


「不要です」


 完璧な答えだった。


 部屋の中に、静かな拍手が響いた。


 誰も気付いていない。


 その少女の中には、本来ならば――。


 別の名前を持つ誰かが眠っていることを。


 そして、その誰かがいつか目を覚ますことを。


 今の詩音には、まだ何も分からなかった。



――――――



 作戦開始まで、残り三時間四十二分。


 四月一詩音は、与えられた個室のベッドに腰掛けていた。


 部屋にはベッドが一つ。


 机が一つ。


 椅子が一つ。


 壁には時計。


 窓はない。


 外の様子を知る必要がないように作られた、完全な待機室だった。


 詩音は壁に背を預け、膝の上に両手を置いている。


 何もすることはない。


 だからといって、退屈だとも思わなかった。


 必要な情報はすでに頭へ入っている。


 一ノ瀬晴人。


 如月結衣。


 西園寺聖奈。


 剣崎凛。


 黒沼摩夜。


 猫宮陽葵。


 それぞれの顔。


 声。


 行動。


 生活習慣。


 警戒すべき時間帯。


 接近する際の注意点。


 頭の中で何度も反復する。


 それが訓練だった。


 与えられた情報を覚え、必要な時に取り出す。


 余計なことは考えない。


 感情を持ち込まない。


 命令に従う。


 それだけ。


 詩音は時計を見た。


 秒針が動く。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 ――その瞬間だった。


 頭の奥で、何かが切れた。


「…………」


 詩音の目が止まる。


 呼吸が、一度だけ途切れた。


 胸の奥に、強烈な違和感が走る。


 知らない。


 この感覚を、詩音は知らない。


 頭の奥に、何かがいる。


 いや。


 何かではない。


 誰かだ。


「……誰?」


 初めて、詩音が自分から言葉を発した。


 返事はない。


 だが――。


 次の瞬間。


 頭の中へ、声が響いた。


『誰、ですって?』


 詩音の瞳が大きく開いた。


『おかしなことを言うわね』


 女の声。


 冷たい。


 静かで。


 そして、不思議なほど馴染んでいた。


『あなたの中にいるのは、私よ』


「……私?」


『そう』


 声が笑った。


『シオン』


 その名前を聞いた瞬間。


 詩音の頭の中に、知らないはずの映像が流れ込んだ。


 銀色の刃。


 血に染まった床。


 暗い廊下。


 誰かの背後へ音もなく近づく自分。


 そして――。


 一人の少年。


 金色の髪ではない。


 王子でもない。


 神でもない。


 ただ、笑っている少年。


 その姿を見た瞬間。


 詩音の胸が、強く締め付けられた。


「……誰?」


『あなたが今、確保しようとしている人』


 シオンは答えた。


『一ノ瀬晴人』


「……ハルト」


 その名前を口にした瞬間。


 胸の奥に、さらに強い感情が生まれた。


 知らない。


 詩音には分からない。


 なのに、シオンには分かる。


 その少年を。


 その名前を。


 その存在を。


 誰よりも大切にしていたことを。


『やっと戻ってこられた』


 シオンの声が、初めてわずかに震えた。


『ずいぶん遅かったわね』


「……あなたは、私なの?」


『違うわ』


 即答だった。


『あなたはあなた。私は私』


「……」


『ただし、あなたの記憶は全部見える』


 詩音は黙った。


 学校。


 訓練。


 任務。


 洗脳。


 命令。


 何百回も繰り返された殺人訓練。


 痛み。


 恐怖。


 失敗した者が戻ってこなかったこと。


 それらすべてを、シオンは知っていた。


 詩音が覚えていることは、シオンにも見えている。


 まるで一冊の本を開いて読むように。


 そして――。


 シオンは理解した。


『なるほど』


 声が低くなる。


『ずいぶんとひどいことをされたのね』


「……私は、任務のために必要な教育を受けただけ」


『そう』


 冷たい声だった。


『そう思うようにされたのね』


 詩音の表情がわずかに歪む。


「違う」


『何が違うの?』


「私は……この組織のために働く」


『そう』


「一ノ瀬晴人を確保する」


『それも知っている』


「だから――」


『だから、あなたは私の敵ね』


 詩音の言葉が止まった。


 初めてだった。


 頭の中にいるシオンという存在が、明確な敵意を見せたのは。


 いや。


 敵意ですらない。


 もっと冷たい。


 もっと深い。


 殺意。


 それも、詩音自身へ向けられたものではない。


 詩音をここまで作り変えた者たちへ向けられたものだった。


『安心して』


 シオンが言った。


『あなたを消すつもりはないわ』


「……え?」


『あなたは便利だから』


 詩音の眉が動いた。


『あなたの知識は全部使える。日本の学校生活も、この組織の構造も、ここまでの訓練内容も、任務の詳細も』


 淡々とした声。


『私には必要な情報だもの』


「……」


『だから、あなたは残してあげる』


 優しさではない。


 情でもない。


 ただの合理性だった。


『あなたの人格を私が消化する』


「消化……?」


『ええ』


 シオンは楽しそうに笑った。


『あなたが持っているものは、全部私が使う』


 その言葉と同時に。


 詩音の中へ、もう一度大量の記憶が流れ込んだ。


 知らない街。


 知らない国。


 知らない人々。


 そして。


 異世界。


 詩音が一度も見たことのない世界。


 そこに、自分がいた。


 メイド服を着て。


 ナイフを持って。


 少年の背後に立っている。


 その少年が振り返る。


「シオン?」


 優しい声だった。


 その瞬間。


 詩音の中で、何かが完全につながった。


『……ああ』


 シオンが呟く。


『やっと会える』


 その声には、先ほどまでの冷たさがなかった。


 ただ一つ。


 異様なほど純粋な感情だけがあった。


『私の主に』


 詩音は何も言えなかった。


 頭の中にいる存在が、誰なのか。


 もう理解してしまった。


 シオン。


 異世界で一ノ瀬晴人に仕えていた暗殺者。


 そして。


 自分自身の前世。


『あなたは私の上に乗った』


 シオンが静かに言う。


『だから、これからは私があなたの上に立つ』


「……私を操るの?」


『必要なら』


「……怖くないの?」


『何が?』


「私が……あなたを邪魔するかもしれない」


 一瞬の沈黙。


 そして。


『その時は、黙らせるわ』


 あまりにも自然な答えだった。


 詩音は息をのんだ。


 だが、シオンはそれ以上何も言わない。


 ただ、詩音の記憶を読み取っていく。


 この施設の構造。


 日本支部の位置。


 支部長。


 警備担当。


 通信設備。


 武器庫。


 医療室。


 監視カメラ。


 そして――。


 今回の作戦に参加する十一人。


 全て。


 シオンの中へ入っていく。


『……なるほど』


 シオンの声が、低く笑った。


『十一人ね』


「そう」


『私を含めて十人の実行部隊。それと教導役兼監視役が一人』


「そう」


『そして、日本支部には別の人員が多数』


「そう」


『一ノ瀬晴人を奪うために、これだけの人数を用意した』


 シオンは少しだけ黙った。


 そして。


『馬鹿ね』


 その一言だけだった。


 詩音には、その意味が分からない。


 だがシオンには分かっていた。


 自分が仕える相手を。


 この組織が何も理解していない。


 ハルトは、ただの少年ではない。


 勇者だ。


 自分が命を捨てても守ると決めた主。


 そして――。


 自分が異世界でも最高クラスの暗殺者として生きていた頃でさえ、最後まで仕え続けた唯一の存在。


 そんな主を。


 この程度の組織が。


 奪おうとしている。


『……ふふ』


 シオンが笑う。


 それは詩音が今まで一度も聞いたことのない笑い声だった。


 冷たい。


 静か。


 そして――楽しそうだった。


『いいわ』


 シオンの意識が、ゆっくりと前へ出る。


『せっかくだもの』


 詩音の右手が動いた。


 机の上に置かれていたペンを取る。


 指先で回す。


 ただのペン。


 けれど、シオンはその扱い方すら武器のように見せた。


『主を迎えに行く前に』


 詩音の口元が、わずかに笑った。


『この国の掃除をしておきましょうか』


 時計の針は、何も知らずに進んでいる。


 作戦開始まで、三時間三十八分。


 その時。


 日本支部の中で。


 最も危険な存在が、目を覚ました。



 作戦開始まで、三時間三十八分。


 その数字が、壁の時計に表示されている。


 だが。


 詩音には、もう関係がなかった。


『立って』


 頭の中で、シオンが言う。


 詩音の身体が動く。


 本人の意思ではない。


 ゆっくりと立ち上がり、個室の扉へ向かう。


「……どこへ?」


『掃除よ』


 詩音の右手がドアノブへ伸びた。


 カチャリ。


 扉が開く。


 廊下には誰もいない。


 監視カメラが一台。


 詩音はそれを見上げた。


『右斜め上。死角がある』


 詩音は迷わず歩いた。


 カメラの視界から消える。


 その瞬間。


 詩音の足が止まった。


『ここから先は、あなたが覚えている場所』


 詩音の脳裏に、この施設の見取り図が浮かぶ。


 何度も叩き込まれた情報。


 誰がどこにいるか。


 どの扉の先に何があるか。


 どこに監視員がいるか。


 どこに警備担当がいるか。


 どこに通信室があるか。


 どこに支部長室があるか。


 詩音が覚えている。


 だから、シオンは迷わない。


『まず一人』


 廊下の角を曲がる。


 警備員がいた。


 詩音の姿を確認する。


「おい、どうした?」


 その瞬間。


 詩音の身体が一歩踏み込んだ。


 ほんの一瞬。


 警備員の意識が途切れる。


 音はない。


 倒れるより先に詩音が身体を支え、そのまま壁際へ移動させる。


 数秒後。


 そこには誰もいなかったように見えた。


『次』


 詩音は歩く。


 走らない。


 慌てない。


 ただ、廊下を歩く。


 それだけだった。


 次の部屋。


 さらに次の部屋。


 通信担当。


 警備担当。


 施設管理担当。


 連絡係。


 医療担当。


 詩音の前では、一人ずつ人間が消えていく。


 銃声は響かない。


 警報も鳴らない。


 悲鳴もない。


 誰かが異変に気付くことすらない。


 魔法は使えない。


 転生した際に、かつて使っていた精神寄生の魔法も失われている。


 それでも。


 シオンには必要なかった。


 暗殺とは、魔法の強さだけで決まるものではない。


 相手に自分の存在を認識させない。


 相手が危険を理解する前に終わらせる。


 そして何より――。


 敵に「敵がいる」と思わせない。


 それこそが。


 異世界で最高峰の暗殺者と呼ばれたシオンの技術だった。


『三人』


 詩音の口が小さく動く。


『四人』


『五人』


 数字が増えていく。


 それは詩音にとって、任務の進捗を示す数字だった。


 しかし。


 次第に、その意味が変わっていく。


 六人。


 七人。


 八人。


 詩音は自分が何をしているのか理解していた。


 相手の顔も知っている。


 名前も知っている。


 何度も顔を合わせた人間もいる。


 訓練中に声を掛けられた者もいた。


 食堂で同じテーブルについたことのある者もいる。


 それでも。


 身体は止まらない。


『次』


「……はい」


 自分の口から返事が出る。


 それが恐ろしかった。


 詩音は止まりたかった。


 けれど。


 止められない。


 シオンが身体を動かしている。


 詩音の意思とは無関係に。


『あの部屋』


 最後に示されたのは、教導役兼監視役がいる部屋だった。


 今回の実行部隊を監督している男。


 詩音たちを鍛えた男。


 そして。


 詩音が今回の任務を失敗しないよう監視していた男。


 扉を開ける。


「工作員番号十一?」


 男が顔を上げた。


「どうした?」


 詩音は答えない。


 男が立ち上がる。


「何か問題が――」


 そこまでだった。


 詩音の身体が動く。


 男が何かを理解するより早く、戦闘は終わった。


 静寂。


 詩音は男を見下ろしている。


『これで終わり』


 シオンが言った。


「……何人?」


『実行部隊十名』


 少し間を置く。


『監視役一名』


「……それだけ?」


『ええ』


 詩音は息をしていた。


 心臓も動いている。


 身体にも大きな傷はない。


 なのに。


 胸の中だけが、壊れていく。


「……私たちの、仲間……」


『違うわ』


 シオンの声は冷たい。


『敵よ』


「でも……」


『あなたを作った人間たち』


「……」


『あなたに殺しを教えた人間たち』


「……」


『あなたを壊した人間たち』


 詩音は何も言えない。


『それでも殺したくない?』


「……分からない」


『そう』


 シオンは淡々と答えた。


『なら、分からなくていい』


 詩音の身体が歩き出す。


 支部の奥へ。


 まだ人間がいる。


 実行部隊だけではない。


 日本支部を運営するために働いていた者たち。


 事務。


 通信。


 資金。


 管理。


 情報。


 警備。


 それぞれが、この組織のために働いていた。


 そして。


 誰も知らない。


 自分たちの支部に、すでに死神が入り込んでいることを。


 詩音は歩く。


 そして。


 また一人。


 また一人。


 静かに消えていく。


 最後の一人が倒れた時。


 施設は完全な静寂に包まれた。


 警報は鳴らなかった。


 外部への連絡もなかった。


 日本支部は。


 誰にも知られることなく、機能を停止した。


 詩音は廊下の中央に立っていた。


 その顔は無表情だった。


 だが。


 頭の中では、詩音の人格が悲鳴を上げていた。


「……いや」


 初めて。


 シオンに逆らう言葉が出た。


「嫌……」


『どうしたの?』


「私……」


 詩音の声が震える。


「私は……この人たちのために……」


 教育された。


 そう教えられてきた。


 この国のために。


 この組織のために。


 そして。


 組織の大本であるフランスのために。


 命を捨てても尽くす。


 それが自分の生きる意味だと。


 そう思わされてきた。


「なのに……」


 詩音の目から涙が落ちた。


「どうして……」


『あなたは真面目ね』


 シオンの声は優しかった。


 だからこそ。


 残酷だった。


『だから、壊れやすい』


「……やめて」


『何を?』


「私を……」


 詩音の声が震える。


「私を、どうするつもりなの……?」


 シオンは答えなかった。


 ただ。


 詩音の記憶を、もう一度眺めた。


 教育。


 忠誠。


 命令。


 恐怖。


 仲間。


 国家。


 組織。


 詩音を構成しているもの。


 その全てを。


 シオンは理解していた。


『あなたは、私には必要なの』


「……」


『日本のことを知っている』


『この組織のことを知っている』


『私にはない、この世界で生きるための知識を持っている』


『だから消す必要はない』


 シオンは静かに告げる。


『でも――』


 一拍。


『あなた自身は、邪魔ね』


 詩音の瞳が揺れた。


『あなたが正常なままでは、私はあなたの記憶を自由に使えない』


「……何を……」


『あなたは、今まで信じてきたものを失った』


 シオンの声が淡々と続く。


『これから、あなたが信じるものも失う』


「やめて……」


『そして最後には』


 詩音の意識が、ぐらりと揺れた。


『何も信じられなくなればいい』


 シオンの狙いは、それだった。


 詩音を殺すことではない。


 人格そのものを完全に消すことでもない。


 廃人にする。


 何も考えられず。


 何も決められず。


 何かを命じられなければ動けない。


 ただし。


 記憶と知識だけは残る。


 そうすれば。


 シオンは必要な時に、詩音の知識を引き出せる。


 日本で生きるための知識。


 この世界の常識。


 この組織についての知識。


 そして。


 ハルトの周囲についての情報。


『あなたは私の中で生きればいい』


 シオンが囁く。


『私の邪魔をしない形でね』


 詩音は答えられなかった。


 ただ、涙だけが流れている。


 そして。


 その顔を見ながら。


 シオンは初めて、完全に理解した。


 ハルトのために。


 自分がやるべきことを。


『これで、邪魔する人はいなくなった』


 日本支部。


 消滅。


 フランス本国との連絡も。


 指揮系統も。


 作戦部隊も。


 全て断ち切った。


 ハルトの視界に入る前に。


 ハルトが敵だと認識する前に。


 全て消す。


『あとは――』


 シオンの意識が、静かに笑った。


『主のところへ行くだけね』


 詩音の身体が歩き出す。


 向かう先は。


 一ノ瀬晴人。


 そして。


 シオンは知らない。


 これから自分が向かう場所で。


 自分がどれほど異常な存在として迎えられることになるのかを。


 ただ一つ。


 確かなことがある。


 異世界最高峰の暗殺者。


 シオンは。


 ようやく。


 主のいる世界へ帰ってきた。



 日本支部は、完全に沈黙していた。


 先ほどまで人の気配に満ちていた施設とは思えないほど、静かだった。


 シオンはその中央に立っていた。


 正確には。


 詩音の身体を使って。


 詩音の目で。


 詩音の手で。


 この世界の情報を見つめていた。


『さて』


 シオンが呟く。


『手ぶらで主のところへ行くのも、つまらないわね』


「……何をするの?」


『お土産を探すのよ』


 詩音には意味が分からない。


「お土産?」


『ええ』


 シオンは笑った。


『主の周りで何か企んでいる人間がいるなら、先に全部知っておいたほうがいいでしょう?』


 その言葉に、詩音は少しだけ反応した。


 ハルト。


 一ノ瀬晴人。


 確保対象。


 そう教え込まれてきた名前。


 だが、シオンにとっては違う。


 主。


 守るべき人。


 仕えるべき相手。


 その違いを、詩音はまだ完全には理解できない。


 それでも。


 シオンがハルトについて話す時だけ、声が変わることは分かった。


『この支部には、かなりの情報があるはずよ』


 詩音の身体が動き出す。


 向かった先は情報管理室。


 端末の前に座る。


 パスワードを入力する。


 詩音が覚えていたものを、シオンが利用する。


 画面が開く。


『……ふふ』


 シオンの目が細くなった。


『やっぱりね』


 そこにあったのは、日本支部だけの情報ではなかった。


 各国の作戦記録。


 通信記録。


 調査報告。


 対象者リスト。


 そして。


 一ノ瀬晴人に関する極秘資料。


 詩音の人格が、それを見ている。


「……こんなに?」


 画面に並んでいる名前の数に、詩音が呟いた。


『ええ』


 シオンが答える。


『フランスだけじゃない』


 資料を開く。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 次々と別の組織の名前が現れる。


 国家情報機関。


 軍事組織。


 諜報機関。


 民間軍事企業。


 巨大企業。


 そして。


 国家ですら直接関与することを避けている、正体不明の組織。


 全てが。


 一つの少年を追っていた。


 一ノ瀬晴人。


『面白いわね』


 シオンは楽しそうに呟いた。


 ある国は、ハルトの魔法を軍事利用しようとしていた。


 ある組織は、魔法の再現技術を手に入れようとしていた。


 別の企業は、ハルトの持つ特殊な品を独占しようとしている。


 そして。


 もっと単純な目的を持つ者たちもいた。


 ――本人を手に入れる。


 詩音は画面を見つめる。


「……どうして?」


『何が?』


「どうして、みんな一ノ瀬晴人を欲しがるの?」


『簡単よ』


 シオンは答えた。


『この世界で唯一の魔法使いだから』


 詩音は黙る。


『しかも、ただ魔法を使えるだけじゃない』


 資料が次々と開かれる。


 異常な身体能力。


 未知の物質。


 治療効果を持つアイテム。


 食料。


 水。


 武器。


 そして。


 経済すら動かしたハルトコイン。


『この世界に一人しか存在しない』


 シオンの声が冷たくなる。


『なら、欲しくなるでしょうね』


「……人間なのに?」


『人間だからよ』


 即答だった。


『世界で唯一なら、人間ではなく資産として見られる』


 その言葉に、詩音は何も言えなかった。


 資料には。


 露骨な表現まで存在していた。


 確保。


 拘束。


 移送。


 管理。


 独占。


 保護。


 研究。


 交渉材料。


 国家資産。


 戦略的資源。


 そして。


 ――トロフィー。


 詩音の目が止まった。


「……トロフィー?」


『ええ』


 シオンが笑う。


『誰が世界で唯一の魔法使いを手に入れるか』


 画面には、複数の組織による競争状況が記録されていた。


 どこかが情報を集める。


 どこかが接触を試みる。


 どこかが買収を仕掛ける。


 どこかが拉致を計画する。


 そして。


 それぞれが互いの動きを監視している。


 一ノ瀬晴人本人は。


 そんなことを知りもしない。


 動画を撮影して。


 学校へ通って。


 友人と笑って。


 自分が世界中の裏側で争奪戦の中心にいることなど。


 まるで知らない。


『愚かね』


 シオンが呟いた。


「誰が?」


『全員よ』


 シオンは画面を閉じる。


『主を奪えば、自分たちが勝者になれると思っている』


 そして。


 ゆっくりと笑った。


『だったら、勝者になれると思っている全員を消せばいい』


 詩音の身体が止まった。


「……全部?」


『必要なら』


「そんなことをしたら……」


『主には関係ないわ』


 冷たい声だった。


『主の前に立つ必要すらない』


 シオンは、再び端末へ目を向ける。


 資料を保存する。


 組織名。


 責任者。


 活動地域。


 目的。


 接触計画。


 ハルトに関する調査内容。


 可能な限り全て。


『これは使える』


 詩音には、それが何に使えるのか分からない。


 だが。


 シオンには分かっていた。


 ハルトの傍へ行った後。


 必要になる。


 ハルトが知らなくてもいいこと。


 ハルトの目に入る前に消しておくべきもの。


 そして。


 ハルト自身が望めば、いつでも差し出せる情報。


『主への手土産としては、十分ね』


 シオンは満足そうに笑った。


 その時。


 一つのファイルが目に入った。


 そこには。


 日本国内で予定されている複数の接触計画が記されていた。


 学校。


 動画撮影。


 イベント。


 企業関係者との接触。


 さらに。


 ハルトの周囲にいる人物への接近計画。


 詩音がそれを見ている。


「……この人たちも、狙われてる」


『ええ』


「如月結衣も?」


『そう』


「西園寺聖奈も?」


『そう』


「剣崎凛も、黒沼摩夜も……?」


『全部よ』


 詩音の表情が曇る。


 それは。


 ついさっきまで自分たちがしようとしていたことと同じだった。


 ハルトを手に入れるために。


 周囲を調べ。


 弱点を探し。


 接触し。


 必要なら排除する。


 シオンは画面を見ながら。


 静かに笑った。


『なるほど』


「……何?」


『主の周りは、ずいぶん賑やかなのね』


 詩音は返事をしなかった。


 シオンは保存したデータを持ち出す準備を始める。


『決めたわ』


「何を?」


『主に会う前に、もう少し情報を集める』


「……まだ?」


『ええ』


 シオンは立ち上がった。


『これだけの人間が主を狙っているなら』


 その目に。


 暗殺者としての冷たい光が宿る。


『一人残らず把握しておきたいもの』


 そして。


 その全てを。


 ハルトの視界に入る前に。


 シオンは消してしまうつもりだった。


 それが。


 主に仕える暗殺者としての。


 自分の仕事だから。


『待っていてくださいね、ハルト様』


 誰もいない情報管理室で。


 シオンは、初めて。


 心から嬉しそうに笑った。



 情報管理室。


 シオンは、最後のファイルを閉じた。


 必要な情報は揃った。


 一ノ瀬晴人。


 その周囲の人間。


 彼を狙う組織。


 各国の思惑。


 日本支部の情報。


 フランス本国との繋がり。


 そして――。


 四月一詩音についての記録。


 シオンは、そのデータを開いた。


『さて』


 頭の中で、声が響く。


『最後にしましょうか』


「……何を?」


『あなたのことよ』


 詩音が黙る。


 シオンは、画面を一つ操作した。


 表示されたのは、古い資料だった。


 現在の詩音ではない。


 洗脳教育を受ける前。


 訓練を受ける前。


 この組織に連れてこられる前。


 まだ四月一詩音という少女が、この世界で普通に生きていた頃の記録。


『見覚えがあるでしょう?』


「……ない」


『嘘』


 シオンが笑う。


『あなたの記憶は、私にも見えているもの』


 画面には、幼い少女の写真が映っていた。


 今よりずっと幼い。


 無邪気な顔。


 笑っている。


 その横には家族。


 学校。


 友人。


 日常。


 何の変哲もない人生。


 詩音は、それを見つめていた。


「……私?」


『そう』


「……知らない」


『知っているわ』


 シオンは一枚ずつ記録をめくっていく。


 誕生日。


 学校行事。


 好きだった食べ物。


 苦手だったもの。


 友人との会話。


 教師から受けた評価。


 将来やりたいこと。


 些細な失敗。


 些細な喜び。


 どれも。


 詩音が忘れていた記憶だった。


 いや。


 正確には。


 忘れさせられていた。


「……やめて」


 詩音の声が震えた。


『どうして?』


「知らない」


『知っているでしょう?』


「知らない!」


 詩音が叫ぶ。


 だが。


 シオンは止めなかった。


『あなたは、この子だった』


 写真を表示する。


『この子が四月一詩音』


 次の写真。


『この子が笑っていた』


 次。


『この子が泣いた』


 次。


『この子が怒った』


 次。


『この子が誰かを好きになった』


 詩音の呼吸が乱れていく。


「……やめて……」


『どうして?』


「もう……」


『思い出したくない?』


「違う……」


『じゃあ、思い出したい?』


「……分からない」


 シオンは静かに笑った。


『それでいいわ』


 記録が続いていく。


 詩音の中に。


 次々と記憶が蘇る。


 母親の声。


 父親の手。


 学校の廊下。


 教室の窓。


 友達との会話。


 帰り道。


 笑い声。


 泣き声。


 何でもない日常。


 それは。


 詩音にとっては、存在していたはずの人生だった。


 そして。


 その人生は。


 ある日、突然終わっている。


『ここからね』


 画面が変わった。


 暗い部屋。


 拘束。


 教育。


 命令。


 人格矯正。


 洗脳。


 訓練。


 脱落。


 死者。


 そして。


 四月一詩音という少女が。


 今の四月一詩音へと作り変えられていく過程。


 詩音は震えていた。


「……私」


『そう』


「私……こんな……」


『ええ』


「……こんなの……」


 言葉が続かない。


 シオンは淡々と告げた。


『あなたは奪われたのよ』


 詩音が顔を上げる。


『あなたの人生も』


『あなたの記憶も』


『あなたの価値観も』


『あなたが大切にしていたものも』


『全部』


 詩音の目から涙が落ちる。


「……取り戻せる?」


 その言葉だけは。


 子供のようだった。


「これを……全部……取り戻せる?」


 シオンは。


 少しだけ沈黙した。


 そして。


『無理よ』


「……え?」


『もう戻らない』


「……」


『時間は戻せない』


『あなたが失ったものは、失ったまま』


『あの頃の家族も』


『あの頃の友達も』


『あの頃の生活も』


『あの頃のあなた自身も』


 シオンは容赦なく言葉を重ねる。


『全部、過去よ』


「……嫌」


『そして、もっと重要なことがある』


「……何?」


『あなたはもう、あの頃の自分には戻れない』


 詩音の目が見開かれる。


『今のあなたは、この組織のために生きるよう作られた』


『人を殺す方法を覚えた』


『命令に従う方法を覚えた』


『自分を捨てる方法を覚えた』


『そして今』


 シオンの声が静かになる。


『その全てを否定する人間が、あなたの中にいる』


「……あなた?」


『そう』


「……シオン」


『正解』


 詩音は俯いた。


 しばらく。


 何も言わなかった。


 やがて。


「……私、どうすればいいの?」


 小さな声だった。


 シオンは答える。


『何もしなくていい』


「……」


『考えなくていい』


『決めなくていい』


『苦しまなくていい』


『あなたは、もう十分頑張ったもの』


 その言葉だけは。


 不思議なほど優しかった。


 詩音の肩から力が抜ける。


「……疲れた」


『でしょうね』


「……何も考えたくない」


『ええ』


「……もう、嫌」


『ええ』


「……全部、嫌」


 詩音の瞳から光が消えていく。


 シオンはそれを見つめていた。


 ようやく。


 ここまで来た。


 殺す必要はなかった。


 記憶を消す必要もなかった。


 ただ。


 その記憶を。


 その人間が二度と取り戻せない形で見せてやればいい。


 過去の自分を理解させる。


 そして。


 その過去が二度と帰ってこないことを理解させる。


 そうすれば。


 人間は、自分自身を支える理由を失う。


『あなたは、もう四月一詩音ではない』


 シオンが囁く。


「……」


『少なくとも、あなたが知っている意味での「四月一詩音」は、もういない』


「……そう」


『分かる?』


「……うん」


『なら、どうする?』


 長い沈黙。


 そして。


 詩音の口から。


 静かな声が出た。


「……シオンに任せる」


 その瞬間。


 シオンは微笑んだ。


『ええ』


 意識の境界が崩れる。


 詩音。


 シオン。


 二つに分かれていた意識が。


 ゆっくりと重なっていく。


 詩音の記憶は残る。


 知識も残る。


 経験も残る。


 だが。


 そこに「詩音」という人格は、もういない。


 残ったのは。


 シオンだった。


 異世界最高峰の暗殺者。


 冷酷で。


 合理的で。


 目的のためなら手段を選ばない。


 そして。


 ただ一人。


 一ノ瀬晴人だけには絶対的な忠誠を捧げる暗殺者。


 シオンは立ち上がった。


 鏡を見る。


 そこに映っているのは。


 四月一詩音の顔。


 だが。


 その目に宿っているものは。


 もう詩音ではない。


「……ふふ」


 シオンは笑った。


 今までよりも自然に。


 今までよりも深く。


「なるほど」


 頭の中にある詩音の記憶を確認する。


 日本の地理。


 言語。


 文化。


 学校。


 人間関係。


 組織の構造。


 フランス本国との連絡経路。


 そして。


 ハルトについての知識。


 必要なものは。


 全てある。


「便利ね」


 シオンは自分の記憶として、それらを扱った。


 もう「詩音の記憶」ではない。


 自分の中にある情報。


 それだけだった。


「これなら、問題ないわ」


 端末を閉じる。


 支部は沈黙している。


 外部へ連絡する者もいない。


 ハルトを奪おうとしていた者たちも。


 もういない。


 シオンは出口へ向かって歩き始めた。


 その足取りに迷いはない。


 向かう先は一つ。


 一ノ瀬晴人。


 主のもとへ。


「待っていてくださいね、ハルト様」


 シオンは微笑む。


「今度こそ、ずっとお傍にいますから」


 そして。


 かつて四月一詩音だった少女は。


 完全に。


 シオンになった。


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