第72話 女子高生社長、教室に現る
その朝。
青葉高校二年生の教室には、いつも通りの騒がしい時間が流れていた。
――ただし。
この教室には、世界を救った勇者と、異世界の王女と、元騎士団長と、そして勇者の幼馴染が普通の高校生として座っている。
本人たちは。
いたって普通のつもりだった。
「ハルト、おはよ!」
「おう、結衣。おはよう」
教室へ入ってきたハルトに、結衣が笑顔で手を振る。
そのままハルトは自分の席へ向かい、鞄を机の横へ掛けた。
「昨日の動画、もう編集終わった?」
「うん。あと最後の確認だけ。帰ったらハルトにも見てもらうから」
「おお、助かる!」
ハルトは嬉しそうに笑った。
世界中の人々が熱狂する動画を作っている二人だが、学校ではそんなことをしているようには見えない。
ただの高校生。
少なくとも、本人たちはそう思っている。
「主、おはようございます」
その横から、凛が声を掛けた。
「おう、凛。今日も早いな」
「はい。学校は集団生活の場です。遅刻など、あってはなりませんので」
「真面目だなあ」
ハルトが笑う。
凛は満足そうに小さくうなずいた。
その少し後ろでは、聖奈が自分の席に座りながら、優雅に髪を整えている。
「勇者様、おはようございます」
「おはよう、聖奈」
「本日の撮影予定についてですが――」
「聖奈、学校では仕事の話は禁止」
結衣が即座に割り込んだ。
「まあ」
「朝からスポンサー会議を始めないで」
「ですが、勇者様の活動に関する重要な――」
「それも放課後!」
「……承知しました」
聖奈は素直に引き下がった。
その様子を見ていたハルトが笑う。
「結衣って本当に頼りになるよな」
「え?」
突然の一言に、結衣の動きが止まった。
「学校では学校、動画では動画って、ちゃんと分けてくれるし」
「そ、そういうのは普通だから!」
「でも助かってるよ」
「……うん」
結衣は少しだけ顔を赤くして、視線をそらした。
そんな三人を見ながら、凛が静かにうなずく。
「確かに。結衣殿は主の日常を支える重要な存在です」
「そうですわね」
聖奈も同意する。
「……だから、朝からそういう話をしないでってば」
結衣は頭を抱えた。
教室の中には、そんな四人を見ているクラスメイトもいる。
最近では、ハルトたちが仲良くしていることも、すっかり日常の光景になっていた。
「おーい、ハルト!」
そこへ男子生徒の田辺が声を掛ける。
「今日の放課後、部活終わったら動画撮るの?」
「たぶん撮るぞ」
「マジか。次の動画、何やるんだよ?」
「まだ決めてない」
「またそれかよ!」
田辺が笑う。
「お前、本当にその場で決めるよな」
「だって、その方が面白そうだろ?」
「まあ、お前らしいけどな」
そんな何気ない会話。
窓の外からは、朝の校庭で部活動を始める生徒たちの声が聞こえてくる。
黒板には今日の日付。
机の上には教科書。
教室には眠そうな生徒。
どこにでもある高校二年生の朝だった。
――少なくとも。
この瞬間までは。
「……あれ?」
ハルトがふと教室の時計を見る。
「先生、まだ来てないな」
「もうホームルームの時間だけど」
結衣も時計を確認する。
「珍しいね」
「何かあったのでしょうか」
聖奈が首をかしげる。
凛はすぐに教室の入り口へ視線を向けた。
「……来ました」
ガラッ。
教室の前の扉が開いた。
「おはよう、みんな」
担任の教師が入ってくる。
生徒たちがそれぞれ席に着いた。
「さて、朝のホームルームを始める前に、一つ話がある」
教師が教壇に立つ。
いつもと違う空気。
それを感じ取った生徒たちが、ざわざわと顔を見合わせる。
「実はな。今日から、このクラスに編入生が来ることになった」
「え?」
「編入?」
「今日から?」
一気に教室がざわついた。
ハルトも目を丸くする。
「今日からって、急だな」
「本当に急ね……」
結衣も驚いている。
教師は苦笑した。
「まあ、こちらとしても急な話だった。昨日になって正式に決まったものでな」
昨日。
その言葉に、ハルトは首をかしげた。
そんな急に高校へ編入できるものなのか。
だが、教師は特に気にしている様子もない。
「事情については学校側で確認済みだ。みんなも余計な詮索はしないように」
そう言って、教師は教室の扉へ視線を向ける。
「それじゃあ、入ってきてくれ」
扉が開く。
静かに。
一人の少女が教室へ入ってきた。
長い髪。
整った顔立ち。
姿勢はまっすぐで、歩き方にも無駄がない。
制服姿でありながら、どこか普通の高校生とは違う。
教室中の視線が、その少女へ集まった。
少女は教壇の横まで歩くと、静かに立ち止まる。
そして。
ゆっくりと教室を見渡した。
その視線が。
ハルトを捉える。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
少女の表情が柔らかくなった。
だが、それもすぐに消える。
「紹介しよう」
担任が黒板へ名前を書く。
そして、教室へ向き直った。
「今日からこのクラスで学ぶことになった――」
教師が名前を告げる。
「真利・R・ヴァインさんだ」
「……よろしくお願いいたします」
少女――真利は。
丁寧に頭を下げた。
そして顔を上げる。
再び。
ハルトを見る。
その目には。
かつて世界有数の資産家として名を知られた少女とは思えないほど、静かな熱が宿っていた。
「真利・R・ヴァインです」
そして。
彼女は笑った。
「本日より、皆様と同じ生徒として、この学校で学ばせていただきます」
こうして。
ハルトの日常に。
新たな「クラスメイト」が加わった。
「真利・R・ヴァイン……?」
教師が名前を告げた瞬間。
教室のあちこちから、小さな声が上がった。
「えっ、もしかして……」
「炎の勇者チャンネルの?」
「新メンバーの人じゃん!」
「昨日の動画に出てたよな?」
さっきまでの静かなざわめきとは違う。
今度は明らかに、知っている名前を聞いた時の反応だった。
真利はそんな教室の空気を見回し、わずかに目を細める。
予想していた反応だった。
自分が何者なのか。
世界中の金融関係者や企業経営者なら、知らない者の方が少ない。
かつての真利は、世界規模で事業を展開する企業をいくつも抱え、巨大な資産を動かしていた。
投資先も、取引相手も、世界中に存在した。
その名を聞いただけで市場が動く。
そんな時期すらあった。
――だが。
この教室にいる生徒たちは、そんなことを知らない。
当然だ。
普通科高校の生徒が、世界有数の資産家の経歴を詳しく知っている必要などない。
彼らが知っている真利の情報は、もっと単純だった。
炎の勇者チャンネルに新しく加わった女の子。
そして昨日、ハルトと一緒に動画へ出演していた人物。
それだけである。
「やっぱり昨日の動画の人だ!」
田辺が声を上げた。
「マジかよ! 本当に同じクラスなの?」
「そうみたいだね」
別の男子生徒が答える。
「俺、昨日の動画見たぞ。最後に出てきた人だろ?」
「そうそう!」
教室の空気が一気に明るくなる。
教師は苦笑した。
「まあ、みんなが知っているなら話は早いな」
そして真利を見る。
「真利さん。簡単に自己紹介をしてもらえるか?」
「はい」
真利は一歩前へ出た。
「改めまして、真利・R・ヴァインです」
落ち着いた声だった。
「昨日から炎の勇者チャンネルの活動にも参加しております。まだ分からないことも多いと思いますが、これから皆さんと一緒に学校生活を送ることになります。どうぞよろしくお願いいたします」
ぺこり。
きれいに頭を下げる。
その動作も、声も。
非常に丁寧だった。
「よろしくー!」
「歓迎するよ!」
「炎の勇者チャンネルの撮影って、学校でもやるの?」
「ハルトと同じクラスってすごくない?」
「え、じゃあ動画の裏側とか知ってる?」
一気に質問が飛んできた。
真利は少し驚いたように目を瞬かせる。
だが、すぐに落ち着いた表情へ戻った。
「ええ。答えられる範囲でしたら」
「じゃあ、ハルトって普段からあんな感じなの?」
「……あんな感じ、とは?」
「動画で見たまんまってこと!」
「ああ」
真利はハルトを見る。
当の本人は、自分が話題になっていることにも気付かず、隣の結衣へ小声で話しかけていた。
「なあ結衣。今日の一時間目って何だっけ?」
「数学。昨日言ったでしょ」
「そうだっけ?」
「もう……」
いつも通りの二人。
真利はそれを見て、ほんの少しだけ笑った。
「はい。ほぼそのままです」
「やっぱり!?」
教室から笑いが起こった。
「じゃあ、動画で使ってる魔法って本物?」
「CGじゃないの?」
「いや、あれはどう見てもCGだろ!」
「でも本人は魔法って言ってるぞ?」
今度は動画の内容に関する質問が飛び交う。
真利は答えに困ったように一瞬だけ黙った。
魔法。
本物だ。
しかも、彼女自身も異世界で何度も目にしてきた。
しかし。
この世界では、それを知っている者は極めて少ない。
そしてハルト自身が「魔法なら普通にできる」と考えている以上、真利がわざわざ説明する理由もない。
「その件については、私からは何とも」
真利は無難に答えた。
「ただ、動画を見ていただければ分かると思います」
「うわ、うまく逃げた!」
「さすが新メンバー!」
また笑い声が起きる。
その様子を見ながら、結衣が少し安心したように息を吐いた。
「よかった……」
「何が?」
ハルトが聞く。
「真利さん、ちゃんと馴染めそうだなって」
「そうだな」
ハルトも笑う。
「学校って、やっぱり友達が多い方が楽しいしな」
その言葉を聞いて。
真利が一瞬だけハルトを見る。
世界規模の企業を動かしていた時代。
国家レベルの交渉をしていた時代。
巨額の資金を動かし、数え切れないほどの人間を自分の判断で動かしていた時代。
そんなものとは無縁の言葉だった。
――友達が多い方が楽しい。
真利は小さく息を吐く。
「……そうですね」
自然と、その言葉が口から出た。
「私も、そう思います」
すると。
「じゃあ質問!」
田辺が手を挙げた。
「昨日の動画でハルトと一緒に撮影してたけど、実際どうだった?」
「どう、とは?」
「怖くなかった?」
「怖い?」
真利が首をかしげる。
「だってあいつ、平気で変なことするじゃん」
「変なことって何だよ!」
ハルトが横から抗議する。
「だってそうだろ! 前に巨大な黄金の像作ったり、空飛んだりしてたじゃん!」
「あれは面白そうだったから!」
「ほら!」
田辺が真利を見る。
「こういうやつだろ?」
「……確かに」
真利が即答した。
「真利まで!?」
教室に笑い声が広がった。
結衣も思わず吹き出す。
「ふふっ……」
「結衣まで笑うなよ!」
「だって本当じゃん」
「俺、そんなに変かな?」
「うん」
結衣が即答する。
「即答!?」
ハルトが頭を抱える。
教室の雰囲気は、すっかり和んでいた。
真利はその光景を眺めながら、胸の奥に不思議な感覚を覚えていた。
かつては。
自分の周囲にいる人間は、ほとんどが仕事関係者だった。
取引相手。
投資家。
経営者。
部下。
競争相手。
誰もが自分の立場や利益を考えて接してくる。
それが当然だった。
だが。
今、目の前にいる生徒たちは違う。
真利の資産も。
過去の肩書きも。
世界での知名度も。
何も知らない。
ただの編入生として接している。
それが。
妙に新鮮だった。
「じゃあ、最後に一つだけ!」
女子生徒が手を挙げる。
「ハルトと同じクラスってことは、これから一緒に動画撮影するの?」
「はい。その予定です」
「じゃあ学校で撮影することもある?」
「学校の許可があれば、そういう機会もあるかもしれません」
「楽しみ!」
「私も見たい!」
「次の動画いつ?」
「真利ちゃんって、どんな企画が好きなの?」
「えっと……」
質問が止まらない。
教師が腕時計を見る。
そして。
「はい、そこまで!」
パンパンと手を叩いた。
「みんな、歓迎してくれるのはありがたいが、今日はこれから授業がある」
「あ……」
「そうだった」
「もうそんな時間?」
「ホームルーム終わってないじゃん」
生徒たちが時計を見る。
教師はため息をつきながら黒板へ向かった。
「質問大会は休み時間にしてくれ。授業時間まで潰したら、真利さんが来た初日から勉強が遅れるだろう」
「はーい」
渋々ながら、生徒たちが席へ戻っていく。
真利も自分の席へ向かう。
指定された席は。
ハルトたちの近くだった。
「真利、ここだぞ」
ハルトが教えてくれる。
「ありがとうございます」
真利は席へ座る。
そして前を見る。
黒板。
教科書。
窓から差し込む朝の光。
周囲には、普通の高校生たち。
世界規模の企業を率いていた頃には、想像もしなかった光景だった。
そして。
斜め前には、ハルトがいる。
「なあ真利」
「はい?」
「今日の放課後、時間ある?」
「あります」
「じゃあ、また動画撮ろうぜ!」
あまりにも自然な誘いだった。
真利は少しだけ目を見開く。
そして。
ゆっくり笑った。
「もちろんです」
――こうして。
真利・R・ヴァインの高校生活が始まった。
――――――
チャイムが鳴った。
一時間目の終了を告げる音と同時に、教室の空気が一気に緩む。
「終わったー!」
「疲れた……」
「数学長すぎだろ」
椅子を引く音。
教科書を閉じる音。
そして、待っていたかのように。
真利の周囲へクラスメイトが集まり始めた。
「真利さん!」
「ん?」
最初に声を掛けたのは、先ほど質問していた女子生徒だった。
「さっき聞けなかったんだけど、炎の勇者チャンネルって本当にあんな感じなの?」
「あんな感じ、というのは?」
「ハルトが突然すごいことを始めるところ!」
「ああ……」
真利は少し考える。
「はい。だいたい、突然始まります」
「やっぱり!」
女子生徒が嬉しそうに笑う。
「じゃあ、昨日の動画も急に剣を出したの?」
「そうですね」
「撮影前に何をするか決めてないの?」
「ある程度は決めています。ただ――」
真利は少しだけハルトへ視線を向けた。
「最終的には、ハルトさんの思いつきで変わることも多いです」
「うわあ……」
「大変そう」
「慣れれば大丈夫です」
「慣れるんだ……」
その会話を聞いていた別の女子生徒が笑う。
「真利ちゃんって、昨日から加入したばっかりなのに、もうハルトの扱い慣れてない?」
「そうでしょうか?」
「うん」
「じゃあ、私もそれなりに成長したということでしょうか」
「何の成長!?」
近くにいたハルトが振り返った。
「俺の扱いって何だよ!」
「ほら、こういうところ」
女子生徒が指を差す。
「こういうところだよ」
「納得いかない!」
教室に笑い声が広がった。
結衣も自分の席から笑っている。
「まあ、ハルトは昔からそうだから」
「結衣まで……」
「でも、学校ではまだマシな方じゃない?」
「え?」
真利が聞き返す。
「学校では?」
「そう。学校では」
結衣が頷く。
「動画撮影になると、もっとひどいから」
「もっと!?」
クラスメイトたちが一斉に反応した。
「どうなるの?」
「何するの?」
「気になる!」
「例えば?」
質問が一気に真利へ集中する。
真利は少し困ったように笑った。
「……それは、動画を見ていただければ」
「またそれだ!」
「企業秘密みたいになってる!」
「いや、実際に企業だろ!」
誰かがそう言うと、また笑いが起こった。
真利もつられて笑う。
――楽しい。
そう思った。
こんな何気ない会話をすること自体が、久しぶりだった。
以前の真利なら。
仕事の場で笑うことはあっても、こんな理由で笑うことはなかった。
相手が自分に何を求めているのか。
どんな利益を得ようとしているのか。
何を交渉材料にするのか。
常にそんなことを考えていた。
けれど。
ここにいる生徒たちは違う。
「ねえ、真利ちゃん」
また一人の女子生徒が声を掛けてくる。
「好きな教科って何?」
「好きな教科……」
真利は少し考えた。
「数学でしょうか」
「やっぱり!」
「なんで?」
「なんとなく頭良さそうだから!」
「それ、偏見じゃない?」
「じゃあ苦手な教科は?」
「体育」
「意外!」
その言葉に、真利は苦笑する。
「昔から、あまり得意ではありません」
もちろん。
真利は身体能力に自信がないわけではない。
ただ、学校の体育というものに慣れていない。
特に集団競技などは、効率や勝敗を考えすぎてしまう。
「じゃあ体育祭どうするの?」
「体育祭?」
「まだ先だけど、クラス対抗とかあるじゃん」
「ああ……」
真利の表情が少し固まった。
「……それは、今から考えます」
「なんか不安そう!」
女子生徒が笑う。
「大丈夫だよ。みんなでやれば楽しいから」
「そうですか?」
「うん!」
「なら、頑張ってみます」
真利が頷く。
そのやり取りを少し離れた場所から見ていた凛が、静かに口を開いた。
「真利」
「はい?」
「体育祭なら、私が指導します」
「凛さん?」
「身体を動かすのであれば、鍛錬と考えれば――」
「凛、それは違うぞ」
ハルトが止める。
「体育祭は鍛錬じゃない」
「しかし、勝負事でしょう?」
「まあ勝負だけど……」
「ならば、勝つべきです」
「そういうところだよ!」
結衣が笑う。
「凛は学校行事まで本気で勝ちにいくから」
「当然です」
凛は真顔だった。
「主が参加されるのであれば、なおさら」
「いや、俺も普通にやるからな?」
「普通とは?」
「普通は普通だよ!」
また教室に笑い声が響いた。
そんな中。
「ねえ、聖奈さんも質問していい?」
今度は聖奈のところにも女子生徒が集まり始めた。
「もちろんですわ」
「聖奈さんって、真利さんと前から知り合いなの?」
「ええ」
「ハルトとも?」
「もちろんです」
「じゃあ、みんな仲良いんだ」
「そうですわね」
聖奈は優雅に微笑む。
「私たちは、同じチャンネルで活動する仲間ですもの」
「いいなあ」
「私も動画出てみたい」
「いや、それは学校の許可が必要だろ」
「そうだけど!」
教室のあちこちで、そんな会話が続いていた。
真利はその光景を眺める。
そして、ふと気づく。
誰も。
自分の過去について聞かない。
当然だった。
彼らにとって自分は。
世界規模の企業を率いていた経営者でも。
巨大な資産を持っていた資産家でもない。
ただの。
「炎の勇者チャンネルの新メンバー」。
そして。
「今日から同じクラスになった編入生」。
それだけなのだ。
「……真利」
ハルトが声を掛ける。
「はい?」
「学校、楽しいか?」
突然の質問だった。
真利は少しだけ目を丸くする。
そして。
「はい」
素直に答えた。
「とても」
「そっか」
ハルトが嬉しそうに笑う。
「ならよかった!」
その笑顔を見て。
真利もまた、自然に笑った。
「……ありがとうございます」
その時。
次の授業を知らせる予鈴が鳴った。
「やば、席戻らないと!」
「次、英語だっけ?」
「教科書出さなきゃ!」
クラスメイトたちが一斉に自分の席へ戻っていく。
真利も机に向き直る。
ほんの短い休み時間だった。
それでも。
真利にとっては。
これまで経験したことのないほど、穏やかな時間だった。
――――――
放課後。
終業のチャイムが鳴ると、教室には一日の終わりを告げる開放感が広がった。
「終わったー!」
「部活行こうぜ!」
「また明日なー!」
クラスメイトたちがそれぞれの場所へ散っていく。
そんな中。
「真利」
ハルトが声を掛けた。
「はい?」
「部室行こうぜ」
「部室?」
「そう。炎の勇者チャンネルの部室」
真利は少しだけ首をかしげる。
「撮影ですか?」
「今日はしない」
「企画会議でしょうか?」
「それもしない」
「では、何を?」
ハルトは少し考えて。
「……駄弁る」
「駄弁る?」
「うん。みんなで適当に話すだけ」
あまりにも簡単な答えだった。
真利は一瞬だけ黙る。
「……それだけですか?」
「それだけ」
「なるほど」
真利は頷いた。
「では、行きましょう」
教室を出る。
その後ろから結衣、聖奈、凛も続いた。
そして。
「待ってくださーい!」
廊下の向こうから、明るい声が響いた。
振り返る。
そこにいたのは、陽葵だった。
「お待たせしました!」
「陽葵、今日も来たのか」
「もちろんです!」
陽葵は嬉しそうに駆け寄ってくる。
「だって今日は真利さんの編入初日ですよね!」
「そうだな」
「私も一緒に帰りたかったんです!」
「同じ学校なんだから、帰るくらい別にいいだろ」
「違います!」
陽葵が胸を張る。
「部室に行くんです!」
「まあ、それもそうか」
ハルトは笑った。
「じゃあ行こうぜ」
「はい!」
こうして。
いつもの仲間が揃って、部室へ向かった。
――――――
炎の勇者チャンネルの部室。
そこは、学校の一室を借りて作られた場所だった。
動画撮影に使う機材や、資料なども置かれている。
だが。
今日の目的は、それらではない。
ハルトは部室へ入ると、鞄を適当に机の横へ置いた。
「ふー……」
そしてソファへ座る。
「疲れたー」
「学校だけで疲れたの?」
結衣が呆れたように言う。
「疲れるだろ。授業って座ってるだけなのに疲れるんだぞ」
「それは分かるけど」
「分かるだろ?」
「まあ……」
結衣も向かいの椅子へ座った。
聖奈は優雅にソファの端へ腰を下ろし、凛はその隣。
陽葵は真利の隣へ座った。
「真利さん」
「はい?」
「今日はどうでした?」
「学校ですか?」
「はい!」
「楽しかったです」
真利が答える。
「本当に?」
「ええ」
「よかったー!」
陽葵が嬉しそうに笑った。
「私も最初は転校したばかりの時、ちょっと緊張しましたから!」
「陽葵はすぐ馴染んでいたでしょう」
結衣が言う。
「そうでしたっけ?」
「そうだよ」
ハルトも頷く。
「陽葵、初日から普通に喋ってたじゃん」
「だって、皆さん優しいですから!」
「それは確かに」
真利も頷く。
「皆さん、とても親切でした」
「だろ?」
ハルトが嬉しそうにする。
「俺の友達だからな!」
「その理屈はどうなんですか?」
結衣が突っ込む。
「でも、実際そうじゃないか?」
「まあ……そうだけど」
結衣は少し笑った。
それから。
しばらく誰も何も話さなかった。
静かな時間が流れる。
窓の外から、運動部の掛け声が聞こえてくる。
夕方の光が部室へ差し込んでいた。
「……」
「……」
「……」
陽葵がスマートフォンを眺めている。
凛は窓の外を見ている。
聖奈は持ってきた飲み物を飲んでいる。
結衣は机の上に置かれたノートを眺めている。
そしてハルトは。
「なあ」
突然口を開いた。
「今日の晩飯、何食う?」
「急だね」
結衣が顔を上げる。
「腹減った」
「まだ放課後になったばかりでしょ」
「でも減った」
「じゃあパンでも食べる?」
「パンか……」
ハルトが考える。
「勇者パン?」
「なんでそうなるのよ」
「いや、そこにあるし」
部室の棚には、炎の勇者チャンネルの商品がいくつか置かれている。
その中には、もちろん勇者パンもあった。
「それは商品サンプルでしょう」
聖奈が言う。
「食べてもいいのか?」
「駄目に決まってるでしょ」
「そうか」
ハルトが残念そうにする。
「じゃあ帰りに何か買おうぜ」
「はいはい」
結衣が苦笑する。
そんなやり取りを見ていた真利が、小さく笑った。
「……なんだか、不思議ですね」
「何が?」
ハルトが聞く。
「こうして皆さんと、何でもない話をしていることがです」
「そうか?」
「はい」
真利は部屋を見回す。
「もっと、何か特別な話をする場所だと思っていました」
「特別?」
「ええ。炎の勇者チャンネルの部室ですから」
「ここ?」
ハルトが部室を見回す。
「普通だろ?」
「普通……ですか?」
「うん」
ハルトは笑う。
「俺たち、普段からこんな感じだぞ」
「そうですか」
真利は少しだけ考える。
「……それなら、よかったです」
「何が?」
「こちらの方が、落ち着きます」
その言葉に。
結衣が柔らかく笑った。
「じゃあ、真利さんもこれから慣れていけばいいよ」
「はい」
真利が頷く。
その時。
「そういえば!」
陽葵が突然顔を上げた。
「真利さんって、学校では何て呼ばれてました?」
「呼び方?」
「はい! 真利さん、って呼ばれてます?」
「そうですね」
「じゃあ、私も真利さんでいいですか?」
「もちろんです」
「やった!」
陽葵が笑う。
「じゃあ、ハルトさんは?」
「俺?」
「真利さんから見て、ハルトさんってどういう人ですか?」
「……」
真利が黙る。
ハルトも黙る。
結衣がニヤリと笑った。
「それ、私も聞きたい」
「結衣まで!?」
真利は少しだけ考え。
「そうですね……」
そして。
「面白い人、でしょうか」
「普通だな!」
ハルトが叫ぶ。
「もっとこう、勇者としての評価とか!」
「学校での話ですよね?」
「そうだけど!」
「でしたら、面白い人です」
「二回言った!」
部室に笑い声が響いた。
凛も珍しく口元を緩めている。
「確かに。主は面白い方です」
「凛まで!?」
「私もそう思いますわ」
「聖奈も!?」
「私も!」
「陽葵まで!」
四方向から肯定され。
ハルトはソファに沈み込んだ。
「……俺って、そんなに面白いのか?」
「面白いよ」
結衣が即答した。
「そうですか……」
ハルトは少し考える。
「じゃあ、いいか」
「いいんだ」
また笑い声が起こる。
何か重要な話をしているわけではない。
企画を決めているわけでも。
動画を撮っているわけでもない。
ただ。
今日学校で何があったとか。
晩飯は何にするかとか。
誰が面白いとか。
そんな他愛のない話をしているだけだった。
それなのに。
真利は思っていた。
――こういう時間も、悪くない。
かつての自分には。
こんな時間はほとんどなかった。
何かを成し遂げるために動き。
利益を生むために考え。
勝つために判断する。
毎日が、その繰り返しだった。
けれど。
今は違う。
放課後の部室で。
仲間たちと笑っている。
それだけだった。
真利は窓の外へ目を向けた。
夕焼けが、校舎を赤く染めている。
「……明日も」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「ん?」
ハルトが振り向く。
「いえ」
真利は笑う。
「明日も学校に来るのが楽しみだと思っただけです」
「そりゃそうだろ」
ハルトは当たり前のように答えた。
「明日も学校あるんだから」
「……はい」
真利は頷いた。
そして。
また皆との他愛のない会話に戻っていった。
それからしばらくして。
「じゃあ、今日はこの辺で解散するか」
窓の外は、すっかり夕暮れ色に染まっていた。
ハルトが立ち上がる。
「明日も学校あるしな」
「そうだね」
結衣も鞄を手に取る。
「真利さん、今日は疲れたでしょう?」
「いえ。大丈夫です」
真利は首を横に振った。
「むしろ、とても楽しい一日でした」
「それならよかった」
聖奈が微笑む。
「明日からも、同じように過ごせばよろしいのですわ」
「はい」
凛も頷く。
「学校生活について分からないことがあれば、遠慮なく私に聞いてください」
「ありがとうございます」
「私にも聞いてくださいね!」
陽葵が手を挙げる。
「学校のことなら、私も結構詳しいですよ!」
「では、その時はお願いします」
「任せてください!」
陽葵が胸を張る。
「じゃあ、帰ろうぜ」
ハルトが扉を開ける。
「また明日」
「また明日ね」
「お疲れ様です」
「お気をつけて」
「じゃあねー!」
それぞれが挨拶を交わし。
六人はそれぞれの帰路へと散っていった。
今日という一日は。
何事もなく終わった。
――少なくとも。
彼らがそう思っていた間は。
――――――
同じ頃。
日本国内某所。
外から見れば、何の変哲もない施設だった。
看板もない。
周囲に人の気配もない。
窓も少なく、建物の用途を示すものは何一つ存在しない。
その地下深く。
一室だけに明かりが灯っていた。
「……確認した」
暗い部屋の中。
一人の男が、机の上に置かれた資料へ視線を落とす。
「対象は青葉高校に在籍」
資料には、一人の少年の写真が載っていた。
一ノ瀬晴人。
炎の勇者チャンネル。
世界唯一の魔法使い。
そして。
現在、世界中から注目を集める存在。
「魔法の存在は、もはや疑いようがない」
別の人物が言った。
「映像だけではない。複数の現場から、既存の科学技術では説明できない現象が確認されている」
「ならば、確保する価値はある」
短い言葉だった。
その部屋にいる誰も、反論しない。
「接触を試みるのか?」
「必要ならば」
「拒否された場合は?」
一瞬。
部屋の空気が冷えた。
「……手段は問わない」
男は資料を閉じる。
「対象は一人だ」
そして。
「世界で唯一の魔法使いだ」
その言葉だけが。
暗い部屋の中に、重く響いた。
――――――
施設のさらに奥。
一般人なら決して立ち入ることのできない区画。
そこには。
奇妙な記録が並んでいた。
名前。
年齢。
出身国。
そして――訓練結果。
その数字は。
決して大きくない。
むしろ。
異常なほど少なかった。
厳しい訓練課程を最後まで生き残る者は、全体の三割にも満たない。
その数字を見ても。
誰も眉一つ動かさない。
「次の指令は?」
「対象確保に向けた準備だ」
「了解」
短い返答。
その中に。
一人の少女がいた。
「四月一詩音」
呼ばれた少女が、静かに顔を上げる。
「はい」
「お前にも任務がある」
「承知しました」
詩音はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ。
机の上に置かれた一枚の写真へ視線を向ける。
そこに写っていたのは。
学校で笑っている、一人の少年。
炎の勇者。
一ノ瀬晴人。
世界唯一の魔法使い。
そして。
まだ何も知らない高校生だった。
「……確保対象」
詩音が小さく呟く。
その声には。
感情らしい感情がなかった。
「了解しました」
部屋の照明が落ちる。
暗闇の中。
写真だけが。
しばらく残されていた。
――ハルトが知らない場所で。
静かに。
何かが動き始めていた。




