第68話 バブル崩壊? 勇者、世界経済を救う
西園寺聖奈は、画面に表示された数字を見つめたまま、しばらく動かなかった。
ハルトコイン。
株式会社炎の勇者が正式に発行した、炎の勇者チャンネルの公式通貨。
販売を開始してから、まだ二か月ほどしか経っていない。
それなのに。
「……一ハルトコインが、百万円……?」
聖奈の口から、思わずそんな言葉が漏れた。
最初に設定した価格は、決して高くなかった。
ハルトコインを持っていれば、ハルトショップを利用できる。
そこで販売されている勇者パン、勇者水、勇者ポーションを、一個一ハルトコインで購入できる。
ただ、それだけ。
少なくとも。
聖奈たちは、そう思っていた。
だが。
現実は違った。
画面を更新する。
数字が変わる。
もう一度更新する。
また変わった。
「……百二十万円」
さらに数秒。
「百三十万円……?」
聖奈は眉を寄せた。
あり得ない。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
けれど、画面に表示されている数字は間違いなく現実だった。
ハルトコインの価値が、猛烈な勢いで上昇している。
理由も分かっている。
勇者パン。
勇者水。
勇者ポーション。
それらが、世界中の常識をひっくり返してしまったからだ。
病気が治る。
怪我が治る。
長年の体調不良が消える。
身体が若返る。
毎日食べれば健康になり、腹も満たされる。
しかも。
それが一個、一ハルトコイン。
「……そんなものを、一枚百万円で買えると思えば」
聖奈は小さく息を吐いた。
百万円。
普通の人間からすれば、とても安いとは言えない。
だが。
世界中の富豪たちにとっては違う。
百万円で健康が買える。
百万円で若さが買える。
百万円で病気を治せる。
百万円で、死ぬまで抱えるはずだった不調を消せる。
そんなものが一枚百万円なら。
――安すぎる。
だから買われる。
持っている者は手放さない。
持っていない者は、何としてでも手に入れようとする。
株を売る。
土地を売る。
会社の資産を動かす。
現金をかき集める。
それでも足りなければ、別の資産まで売り払う。
世界中の富が。
ハルトコインへ流れ込んでいた。
「……まずいですわね」
聖奈は椅子から立ち上がった。
その顔から、普段の穏やかな笑みは消えていた。
机の上には、ここ数時間で送られてきた資料が並んでいる。
ハルトコインの取引量。
購入者の資産移動。
各国の金融市場。
医療関連企業の株価。
食品関連企業の株価。
そして。
株式会社炎の勇者の利益。
「国家予算を超える……?」
そこに記された数字を見て、聖奈は言葉を失った。
自分たちの会社が。
たった二か月で。
一つの国が一年間に使う金額すら超えるほどの利益を生み出している。
原因は、ただ一つ。
ハルトコインだった。
「勇者様……」
聖奈は、額に手を当てた。
ハルトは、こんなことを望んでいない。
あの人が欲しいのは。
お金ではない。
再生数。
登録者数。
面白い動画。
そして。
視聴者からの「すごい」という言葉。
それだけだ。
「まさか……」
聖奈は窓の外を見る。
世界中で起きている異変を想像する。
ハルトショップの商品を買うために、人々がハルトコインを求める。
ハルトコインを買うために、人々が資産を売る。
資産が売られることで、市場が動く。
市場が動けば、企業が影響を受ける。
そして、その企業の中には。
勇者パンや勇者水によって、仕事そのものを失い始めている食品企業も。
勇者ポーションによって、存在意義を問われ始めている医療関連企業も。
すでに大量に含まれている。
これはもう。
単なる仮想通貨の値上がりではない。
「……世界経済そのものが」
聖奈は静かに呟いた。
「勇者様を中心に、組み替わろうとしている……?」
ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
聖奈は迷わなかった。
こういう時の判断だけは、異様なほど早い。
机の上に置いていたスマートフォンを手に取る。
そして、炎の勇者チャンネルのメンバー全員へ連絡を送った。
『緊急会議を行います』
送信。
すぐに返事が来る。
『え、緊急?』
結衣。
『承知しました。すぐ向かいます』
凛。
『……何か問題が起きた?』
摩夜。
『分かりました。すぐ行きます』
陽葵。
最後に。
『緊急会議って何かあったのか?』
ハルト。
聖奈は、その返信を見て一瞬だけ目を閉じた。
本人は。
何も分かっていない。
たぶん、今日も。
「ハルトコイン、いっぱい売れてよかったな!」
くらいに思っている。
「……勇者様」
聖奈は小さく笑った。
その笑みには、いつもの愛情だけではない。
強い決意が混じっていた。
「今度こそ、私たちが止めなければ」
――――――
それから三十分後。
株式会社炎の勇者。
その会議室に、六人全員が集まっていた。
「で?」
結衣が椅子に座りながら聖奈を見る。
「何があったの?」
「私も気になる」
凛も真剣な表情を浮かべる。
陽葵は少し不安そうに聖奈を見つめ、摩夜は腕を組んだまま静かに待っている。
そして。
「なんかハルトコイン、すごいことになってるらしいな」
ハルトだけが。
いつも通りだった。
聖奈は全員を見渡した。
「はい」
そして。
会議室の大型画面へ、現在のハルトコインの価格を映し出す。
「まず、こちらをご覧ください」
数字が表示された瞬間。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
四人の一般人組が、固まった。
ハルトだけが。
「おお」
と声を上げた。
「めっちゃ上がってるな!」
「そこじゃない!!」
結衣の叫び声が、会議室に響いた。
会議室に、沈黙が落ちた。
大型画面に表示されているのは、現在のハルトコインの価格。
百万円。
いや。
正確には、すでに百万円を超えている。
「……えっと」
最初に口を開いたのは結衣だった。
「これって、つまり……ハルトコイン一枚が百万円ってこと?」
「はい」
聖奈はうなずく。
「現在の市場価格では、その程度まで上昇しています」
「……市場価格?」
凛が首をかしげた。
「一枚百円とか、一枚千円とかじゃなくて?」
「最初は、その程度でした」
「それが二か月で百万円?」
「はい」
「…………」
凛が画面を見る。
もう一度見る。
やはり数字は変わらない。
「すごいな」
凛は素直に感心した。
「主の人気が、それだけ高まったということか」
「いや、そこだけじゃないから!」
結衣がすかさず突っ込んだ。
「私も最初はそう思いました」
聖奈は苦笑する。
「ですが、現在起きていることは、単純な人気上昇ではありません」
聖奈が指を動かす。
画面が切り替わった。
そこには、世界各地の市場データが並んでいた。
「まず、ハルトコインを購入するために、世界中の富裕層が資産を売却しています」
「資産を?」
「はい。株式、土地、企業の持ち分などです」
「なんで?」
ハルトが首をかしげる。
「ハルトコインが欲しいからです」
「そんなに?」
「そんなに、です」
聖奈は真顔で答えた。
「理由は、ハルトショップの商品です」
画面に三つの商品が表示される。
勇者パン。
勇者水。
勇者ポーション。
「勇者パンを食べれば、健康になる」
聖奈が一本指を立てる。
「勇者水を飲み続ければ、若返る」
二本目。
「勇者ポーションを使えば、病気や怪我が治る」
三本目。
「そして、それらがすべて一個一ハルトコインです」
「……あ」
結衣の顔が引きつった。
「待って」
「はい」
「つまり……ハルトコインって」
「健康と若さと、場合によっては命まで買える券になっています」
「…………」
結衣が固まった。
凛も黙る。
陽葵は目を丸くしていた。
ハルトだけが。
「なるほど!」
と、納得したようにうなずいた。
「だからみんな欲しがってるのか!」
「そうです」
「じゃあ人気になるのも当然だな!」
「そこまではいいんだけど!」
結衣が机を叩いた。
「なんで一枚百万円になるの!?」
「需要が高いからです」
摩夜が淡々と答えた。
「欲しい人間が多いのに、買えるハルトコインの数が限られている。だから価格が上がる」
「そういうことです」
聖奈もうなずいた。
「しかも、問題はそれだけではありません」
画面が再び切り替わる。
今度は企業名が大量に並んだ。
「ハルトショップの商品が広まったことで、世界中の企業にも影響が出ています」
「企業?」
「はい」
聖奈の表情が曇る。
「例えば、勇者パンです」
「パン?」
「一個食べるだけで十分な栄養が取れて、毎日食べていれば健康になる。しかも保存性も高い」
「うん」
「それが、一個一ハルトコインです」
「うん」
「今の価格なら、一個百万円ですが」
「……高級パンだな」
ハルトが真顔で言った。
「違う!」
結衣が即座に突っ込む。
「問題はそこじゃない!」
「では何が問題なのですか?」
凛が真剣に尋ねる。
結衣は言葉に詰まった。
「えっと……普通のパン屋さんが……」
「売れなくなる」
摩夜が答えた。
「……そういうこと?」
「それだけじゃない」
摩夜は画面を指差した。
「食品会社、農業、運送、医療、保険。ハルトショップの影響を受ける産業は非常に多い」
「…………」
今度こそ。
ハルトの顔から笑みが消えた。
「そんなに?」
「そんなに」
摩夜は即答した。
「君が作った商品が便利すぎるんだよ」
「便利っていうか……」
ハルトは困ったように頭をかく。
「普通の商品だろ?」
「君の普通は、世間の普通じゃない」
結衣がため息をついた。
それは。
いつものツッコミだった。
けれど今回は。
笑って済ませられる話ではなかった。
「つまり」
聖奈が静かに言葉を続ける。
「ハルトコインの価値が上がりすぎたことで、世界中の人々がお金をハルトコインへ変えようとしている」
聖奈は画面に表示された数字を示した。
「その結果、普通の企業から資金が流出しています」
「…………」
「さらに、ハルトショップの商品によって、これまで必要だった商品やサービスそのものの需要まで変化しています」
「…………」
「そして今」
聖奈は一度息を吸った。
「世界経済が、大きく揺れています」
会議室が静まり返った。
ハルトは画面を見つめる。
結衣も。
凛も。
陽葵も。
ようやく。
事の大きさを理解し始めていた。
「……俺が?」
ハルトが小さく尋ねる。
「はい」
「俺がハルトコイン作ったから?」
「正確には、勇者様がハルトコインとハルトショップを作られた結果です」
「…………」
ハルトは腕を組んだ。
しばらく考える。
「でもさ」
「はい?」
「ハルトコインが欲しい人が多いなら、もっと売ればいいんじゃないか?」
「…………」
聖奈が瞬きをする。
結衣も。
凛も。
陽葵も。
摩夜だけが。
「……それが一番簡単な解決策だね」
とうなずいた。
「え?」
結衣が摩夜を見る。
「どういうこと?」
「需要に対して供給が足りていない」
摩夜は淡々と説明した。
「なら供給を増やせばいい。欲しい人間全員が公式から買えるようにすれば、希少価値による価格高騰は抑えられる」
「なるほど」
凛がうなずく。
「つまり、もっと作ればいいのか」
「そう」
「それなら簡単じゃん!」
ハルトが笑った。
「じゃあ、いっぱい作ろうぜ!」
「……問題が一つあります」
聖奈が言った。
「何?」
「現在の仕組みでは、これ以上増やすのが難しいのです」
「なんで?」
「コンピューターとネットワークの制限です」
「…………」
ハルトが固まった。
「コンピューター?」
「はい」
聖奈が説明する。
「現在のハルトコインは、ネット上で管理されています。発行数や取引記録を安全に管理するためには、コンピューター側にも一定の限界があります」
「つまり?」
結衣が聞く。
「いくらでも好きなだけ増やせる仕組みにはなっていない、ということです」
「へぇ……」
ハルトは画面を見る。
「じゃあ、そのコンピューターをもっと強くすれば?」
「それも簡単ではありません」
聖奈が首を横に振る。
「今の世界最高水準の設備を使っても、限界があります。ネットワーク全体の処理能力にも上限がありますから」
「ふーん」
ハルトは考える。
そして。
何気なく。
「だったら、その制限をなくせばいいんじゃない?」
と言った。
「…………」
摩夜が顔を上げる。
「……どうやって?」
「魔法で」
「…………」
会議室が。
再び静かになった。
「魔法で」
ハルトが、もう一度言った。
会議室に沈黙が落ちる。
「……魔法で?」
摩夜が確認する。
「うん」
ハルトは何でもないことのようにうなずいた。
「ネットとかコンピューターに限界があるなら、その限界をなくせばいいんだろ?」
「……理屈としては、そうだけど」
「じゃあ、やってみよう」
「ちょっと待って」
結衣が慌てて止める。
「やってみようって、何を?」
「だから、限界をなくす魔法」
「そんな簡単にできるものなの?」
「できるよ」
ハルトは即答した。
それから少し考えて。
「たぶん」
「たぶん!?」
結衣の声が裏返る。
しかしハルトは気にした様子もなく、椅子から立ち上がった。
「無限化魔法なら使えるから」
「無限化魔法……」
摩夜が呟いた。
その言葉を聞いた瞬間。
摩夜の目が、わずかに細くなる。
「……対象を限定できる?」
「もちろん」
「ハルトコインに紐づけることは?」
「できると思う」
「じゃあ、それでいい」
「いいの!?」
結衣が叫んだ。
「いや、だって」
摩夜は淡々と答える。
「今の問題は、ハルトコインを発行したくてもコンピューターやネットワークの処理能力に限界があることなんでしょ?」
「そうです」
聖奈が答える。
「だったら、その部分だけ無限にすればいい」
摩夜は画面を見ながら指を折った。
「ハルトコインの発行、購入、送受信、管理に必要な容量や通信量。そこにかかっている制限を全部撤廃する」
「……そんなことができるの?」
陽葵が恐る恐る尋ねる。
「ハルトならできるんじゃない?」
「できるよ」
本人が即答した。
「じゃあ問題ない」
「問題ないのかなぁ……」
結衣は不安そうに呟いた。
だが。
ハルトはすでに魔法を使う準備に入っている。
「えっと……ハルトコインに関係するところだけ」
ハルトが手を前にかざす。
「無限化っと」
次の瞬間。
何かが変わった。
会議室にいる誰も、その変化を目で確認することはできない。
音もしない。
光もない。
ただ。
世界のどこかにあるコンピューターとネットワーク。
そこに存在していた、いくつもの「限界」だけが。
消えた。
ハルトコインの発行数。
ハルトコインの取引量。
ハルトコインのデータ容量。
ハルトコインの通信量。
それらを処理するために必要だったはずの上限が。
ことごとく無限へと書き換えられていく。
「これでいいはず」
ハルトは満足そうに手を下ろした。
「……終わった?」
結衣が尋ねる。
「終わった」
「…………」
結衣は何とも言えない顔をした。
「本当に?」
「うん」
「何か壊れてない?」
「大丈夫だと思う」
「思う、なの?」
「だって、魔法だし」
「それ説明になってないから!」
いつものやり取りだった。
しかし。
聖奈は一つだけ確認しておきたいことがあった。
「勇者様」
「ん?」
「ハルトコイン以外のネットワークやコンピューターには影響しないのですか?」
「しないよ」
ハルトはあっさり答えた。
「ハルトコインに紐づけてあるから」
「つまり?」
「ハルトコインに関係するところだけ無限になる」
ハルトは指を折りながら説明する。
「普通のネットとか、普通のコンピューターは今まで通り。動画を見るのも、メールするのも、ゲームするのも、何も変わらない」
「……なるほど」
聖奈は少しだけ安心した。
少なくとも。
世界中のコンピューターが突然無限の処理能力を持つ、などという事態にはならないらしい。
「それなら……」
摩夜が口を開く。
「さっそく発行数の制限を外そう」
「そうだな」
ハルトがうなずく。
「欲しい人が欲しいだけ買えるようにしよう」
「公式から?」
「もちろん」
「価格は?」
「今の価格は……」
聖奈が画面を見る。
そこには、現在の市場価格が表示されている。
百万円を超えたハルトコイン。
「……一枚百万円以上です」
「高すぎるな」
ハルトが即答した。
「だよね」
結衣もうなずく。
「最初は百円くらいだったのに」
「こんな値段じゃ、普通の人は買えない」
陽葵も困ったように言う。
「でも、公式からいくらでも買えるようになったら?」
摩夜が尋ねた。
「市場価格が下がる」
聖奈が答える。
「需要に対して供給が不足していたことが、高騰の大きな原因ですから」
「なら」
摩夜は画面を操作しながら言った。
「公式から、いくらでも買えるように設定しよう」
「いくらでも?」
「上限なし」
「それって大丈夫?」
凛が尋ねる。
「大丈夫かどうかは分からない」
摩夜は正直に答えた。
「でも」
現在の市場価格を見る。
「一ハルトコインが百万円を超えるような状況よりは、ずっとマシでしょ」
「……確かに」
結衣が頷いた。
「それはそう」
「私も賛成です」
聖奈も続く。
「公式から適正価格で購入できるようになれば、わざわざ高額で市場から買う必要もなくなります」
「じゃあ決まりだな」
ハルトが笑った。
「頼む、摩夜」
「了解」
摩夜はすぐに作業へ入った。
キーボードを叩く。
画面に表示された設定を一つずつ変更していく。
発行上限。
購入上限。
通信上限。
処理上限。
これまで存在していた制限が、次々と解除されていく。
最後に。
「公式価格は?」
摩夜が尋ねた。
全員が聖奈を見る。
「……千円でどうでしょう」
「千円?」
ハルトが聞き返す。
「最初の百円から十倍ですが、現在の市場価格から考えれば十分に適正です」
「うん」
ハルトはあっさりうなずいた。
「それでいい」
「では、公式価格は一ハルトコイン千円」
摩夜が設定を変更する。
「購入制限なし」
クリック。
「……完了」
その瞬間。
ハルトコインの公式販売ページに、新たな購入システムが反映された。
「じゃあ、これを告知しよう」
結衣が言った。
「私が文章を――」
「もう投稿したよ」
摩夜が言う。
「え?」
「早っ!」
結衣が画面を見る。
そこには。
炎の勇者チャンネルの公式アカウントから投稿されたばかりの文章が表示されていた。
――――――――――――――――
【炎の勇者チャンネル公式】
【重要なお知らせ】
ハルトコインについて、購入制限を撤廃しました。
今後、ハルトコインは公式販売ページから必要な分だけ購入できます。
公式価格は、
**1ハルトコイン=1,000円**
です。
市場で高騰した価格で購入する必要はありません。
ハルトコインが欲しい方は、必ず公式から適正価格で購入してください。
なお、今後も公式価格は変更される場合があります。
よろしくお願いします。
――――――――――――――――
「……これでいい?」
摩夜が尋ねる。
「うん」
ハルトは満足そうに笑った。
「これなら、欲しい人もちゃんと買えるだろ」
「……そうですね」
聖奈も頷く。
「少なくとも、これ以上ハルトコインの価格が異常に高騰する状況は防げるはずです」
結衣も画面を見る。
「一枚千円なら、まあ……」
凛も頷いた。
「百万円よりは遥かに現実的だな」
「ですね」
陽葵もほっとしたように笑う。
こうして。
世界経済を揺るがしていたハルトコインの異常な高騰に対して。
株式会社炎の勇者は。
――供給制限そのものを、魔法で撤廃した。
本人たちは。
これで問題は解決した。
そう思っていた。
――――――
薄暗い部屋だった。
壁紙はところどころ剥がれ、窓の隙間から入ってくる外の光が、床に細長く伸びている。
ベッド。
小さな机。
安物のテレビ。
そして、充電器に繋がれたスマートフォン。
それが、この部屋にあるほとんどすべてだった。
真利はベッドの端に座り、スマートフォンの画面を眺めていた。
「…………」
画面には、ニュースサイトが表示されている。
どの記事を開いても。
どのニュースを見ても。
同じ話題が流れていた。
――ハルトコイン。
――世界経済。
――市場混乱。
――企業倒産。
真利は無言のまま、指を動かす。
ニュースを一つ開く。
そして。
また一つ。
さらに一つ。
どの記事にも、似たような言葉が並んでいた。
『食品関連企業、過去最大級の倒産ラッシュ』
『医療関連企業の経営破綻相次ぐ』
『ハルトショップの影響で需要構造が激変』
『世界各国で企業倒産が急増』
『金融市場にも深刻な影響』
『ハルトコイン高騰による資産移動、世界経済を揺るがす』
「…………」
真利は画面をスクロールした。
最初に大きな影響を受けたのは、食料関連だった。
勇者パン。
たった一個で十分な栄養を摂取できる。
しかも、毎日食べれば健康になる。
そんな食品が存在してしまった。
従来の食品産業にとって。
それは悪夢だった。
パンだけではない。
加工食品。
健康食品。
栄養補助食品。
さらには一部の農産物まで。
需要そのものが変わっていった。
人々が今まで当たり前のように購入していたものを、買わなくなっていく。
売れない。
売れなければ、企業は利益を出せない。
利益が出なければ。
従業員に給料を払えない。
仕入れもできない。
借金も返せない。
そして。
倒産する。
「……馬鹿げている」
真利は小さく呟いた。
だが。
もっと深刻だったのは、医療だった。
勇者ポーション。
それまでなら。
人々は病院へ行き、薬を買い、治療を受けていた。
しかし。
勇者ポーションは、その常識を根底から覆した。
病気が治る。
怪我が治る。
長年寝たきりだった人間が目を覚ます。
そんな事例が次々と報告されれば。
当然。
医療に対する需要も変わる。
病院。
製薬会社。
医療機器メーカー。
保険会社。
それらすべてに影響が及ぶ。
そして。
勇者水まである。
若返る水。
健康になる水。
それが実際に存在している。
「…………」
真利はスマートフォンを握る手に力を込めた。
さらに。
世界経済そのものが不安定になったことで、食料や医療とは無関係だった企業まで巻き込まれている。
株価が下がる。
資産が売られる。
資金が流出する。
取引先が倒産する。
銀行が融資を渋る。
消費が落ち込む。
企業が倒れる。
その企業の取引先が倒れる。
そしてまた別の企業が倒れる。
連鎖。
連鎖。
連鎖。
世界中で企業が消えていく。
真利は画面を見ながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
そして。
ようやく。
自分自身のことを考えた。
真利は。
企業をいくつも持っていた。
これまでなら、それは圧倒的な力だった。
会社。
株式。
土地。
設備。
資金。
人脈。
それらを組み合わせれば、世界中のどこにでも手を伸ばせる。
ハルトを手に入れる。
そのための資金を作る。
そのために企業を増やす。
そうして。
自分の手元に積み上げてきた。
「…………」
真利は、自分の資産管理画面を開いた。
表示されるはずだった企業一覧。
そこに。
一つ。
また一つ。
表示される。
『破産手続き開始』
『倒産』
『清算』
『経営破綻』
『事業停止』
『破産』
「…………」
真利の指が止まった。
別の会社を見る。
同じだった。
さらに別の会社。
同じ。
もう一つ。
同じ。
「……全部?」
呟く。
返事はない。
真利は別の画面を開いた。
保有株式。
ほぼ無価値。
企業資産。
差し押さえ。
現金。
ほぼゼロ。
不動産。
担保設定済み。
そして。
借入金。
――巨額。
「…………」
真利は、しばらく画面を見つめていた。
やがて。
乾いた笑いが漏れた。
「はは……」
もう一度。
「ははは……」
笑い声だけが、安宿の狭い部屋に響く。
「……全部なくなった」
企業も。
資産も。
金も。
人脈も。
自分が積み上げてきたものが。
綺麗さっぱり。
消えていた。
残ったのは。
借金だけ。
「…………」
真利はベッドへ倒れ込んだ。
安いマットレスが、軋んだ音を立てる。
天井を見る。
以前なら。
こんな部屋に泊まることなど、考えもしなかった。
ホテルの最上階。
専用の部屋。
秘書。
運転手。
警備。
何もかもが揃っていた。
それが。
今は。
この部屋だけ。
「……一文無し、か」
真利は呟いた。
正確には。
一文無しですらない。
借金がある。
巨額の借金が。
資産はない。
企業もない。
返済に使える金もない。
「……最悪だな」
真利はスマートフォンを胸の上に置いた。
画面には、また一つニュースが表示されている。
『ハルトコイン、公式販売価格を一枚千円に設定――』
「…………」
真利は、その記事をしばらく見つめていた。
そして。
ゆっくりと目を閉じた。
自分が人生を賭けて築き上げてきたものを。
たった二か月で。
あの男は。
何の悪意もなく。
壊してしまった。
「……本当に」
真利は天井を見上げる。
「とんでもない男だな」
怒りは。
不思議なほど湧いてこなかった。
むしろ。
笑えてくる。
世界中の人間が欲しがるものを作り。
世界中の企業を追い詰め。
世界経済まで揺らして。
本人は。
おそらく。
「みんなが欲しがってるなら、いっぱい売ればいいじゃん」
くらいにしか思っていない。
「…………」
真利は再びスマートフォンを見る。
そして。
ハルトコインの公式販売ページを開いた。
表示されている価格。
――一枚、一千円。
「……安いな」
つい数時間前まで。
一枚百万円を超えていたものが。
今は公式から千円で買える。
世界中の人間が欲しがるものを。
本人は。
千円で売っている。
「……はは」
真利は笑った。
乾いた笑いだった。
そして。
その笑いが。
少しずつ。
別のものへ変わっていった。
「…………」
真利の目に。
かつてとは違う光が宿る。
自分が間違えていた。
そう思った。
ハルトを手に入れようとした。
金を積み上げ。
企業を作り。
権力を集め。
ハルトを自分の手元へ引き寄せようとした。
だが。
その結果。
すべてを失った。
「……違う」
真利は小さく呟いた。
「ハルトを手に入れる必要なんて、なかったんだ」
必要なのは。
ハルトを所有することではない。
ハルトの力を奪うことでも。
ハルトを支配することでもない。
ただ。
ハルトの側にいればいい。
「……ハルトのものになればいい」
その言葉が。
妙にしっくりきた。
真利はスマートフォンを握り直した。
自分にはもう。
何もない。
金も。
企業も。
資産も。
失った。
なら。
残っているものは。
自分自身だけだ。
「……だったら」
真利は。
静かに笑った。
「私の人生全部、賭けてみるか」
ハルトに。
自分の残りの人生すべてを。
賭ける。
それが。
今の真利に残された。
唯一の選択肢だった。
「…………」
そのとき。
真利の頭に、一つの計画が浮かんだ。
「……そういえば」
以前。
まだハルトを敵として見る前。
あるいは。
ハルトを直接手に入れることが難しいと判断した場合に備えて。
真利は別のプランを考えていた。
それは。
友好関係を築くこと。
ハルト本人に近づくことができないなら。
ハルトが大切にしているものに近づく。
炎の勇者チャンネル。
その活動を支援する。
利益を共有する。
そして。
少しずつ関係を深める。
当時は。
あくまでサブプランだった。
ハルトを手に入れることができなかった場合の。
第二の選択肢。
「…………」
真利はスマートフォンを操作する。
炎の勇者チャンネル。
その公式ページを開いた。
動画。
配信。
ハルトショップ。
そして。
チャンネルのグッズ。
「……これだ」
真利の目が変わった。
グッズ。
炎の勇者チャンネルの人気を考えれば。
当然、需要はある。
Tシャツ。
タオル。
キーホルダー。
フィギュア。
文房具。
日用品。
さらには。
勇者パンや勇者水をイメージした関連商品など。
考えれば。
いくらでも作れる。
そして。
これは。
ハルトトークンとは違う。
「……正式に許可を取ればいい」
当たり前のことだった。
だが。
真利は、それをしなかった。
ハルトトークンのときは。
ハルトたちの許可を取らず。
勝手に公式を名乗るような形で事業を始めた。
法的には問題がなくても。
信頼を得られるやり方ではなかった。
結果。
ハルトたちとの関係は。
さらに遠ざかった。
「……同じ失敗はしない」
真利は呟いた。
今度は。
正面から行く。
まず会社を作る。
そして。
炎の勇者チャンネルへ事業計画を持っていく。
グッズ販売の許諾を得る。
正式な契約を結ぶ。
利益を分配する。
そうすれば。
ハルトたちの側から見ても。
敵ではない。
むしろ。
自分たちの活動を支えてくれる協力者になる。
「……そうだ」
真利はゆっくりと身体を起こした。
今の自分には。
何もない。
しかし。
会社を作ること自体はできる。
「金なら……」
真利は一瞬だけ言葉を止めた。
そして。
苦笑する。
「……これから作ればいい」
借金まみれ。
資産ゼロ。
むしろ。
大幅なマイナス。
普通なら。
起業どころではない。
だが。
真利には。
一つだけ確信があった。
ハルトの周辺で事業をするなら。
金はいくらでも作れる。
炎の勇者チャンネル。
ハルトショップ。
ハルトコイン。
勇者パン。
勇者水。
勇者ポーション。
世界中の人間が欲しがっている。
その権利を。
正式に与えてもらえるのなら。
事業価値は。
今の自分が抱えている借金など、比較にならないほど大きい。
「……それに」
真利は笑った。
「ハルトに近づける」
これが。
一番重要だった。
ハルトの会社と契約する。
ハルトのチャンネルのグッズを扱う。
ハルトたちと打ち合わせをする。
当然。
何度も顔を合わせることになる。
仕事の相談をする。
商品について話す。
売上について話す。
そうしていれば。
いつか。
ハルトの隣に立てる。
「…………」
真利は目を閉じた。
かつては。
ハルトを自分のものにしようとした。
だが。
今は違う。
自分がハルトの側に立つ。
自分がハルトのために働く。
自分の持っているものを。
全部。
ハルトに差し出す。
それなら。
ハルトは。
自分を拒絶しないかもしれない。
「……決めた」
真利は立ち上がった。
安宿の小さな机に置かれたノートパソコンを開く。
画面を起動する。
新規事業計画。
会社設立。
グッズ販売。
炎の勇者チャンネルとの正式契約。
一つずつ。
これから必要になるものを書き出していく。
「まず会社」
次に。
「資金調達」
さらに。
「事業計画」
そして。
「許諾申請」
最後に。
真利は画面に文字を入力した。
『炎の勇者チャンネル公式グッズ販売事業』
その文字を。
しばらく眺める。
「……これでいい」
ハルトを手に入れる。
そのためではない。
ハルトに近づくため。
ハルトの力を利用するためでもない。
ハルトが欲しいと思うものを。
ハルトの許可を得て。
ハルトのために作る。
「……そうしよう」
真利は小さく笑った。
金なら。
これからいくらでも稼げる。
借金なら。
返せばいい。
今はゼロどころか。
大きなマイナスだ。
それでも。
ハルトの側へ行けるのなら。
安いものだった。
「私の人生全部……」
真利は画面を見つめる。
「ハルトに賭ける」
こうして。
かつてハルトを手に入れるために世界中へ手を伸ばしていた男は。
すべてを失った末に。
ハルトの敵になる道を捨てた。
そして。
今度は。
ハルトの味方になるために。
――借金まみれの状態から、新しい会社を作ることを決意した。
真利の。
新しい人生が。
ここから始まる。




