第62話 騎士は主の敵を断つ
夜の帳が降りたヨーロッパ。
重厚な石造りの建物が並ぶ工業都市の一角に、その企業は本社を構えていた。
企業名――『アーク・アーマメント・システムズ』。
世界でも有数の軍需企業であり、本拠地はドイツ連邦共和国、バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト郊外。
表向きは防衛技術企業。
しかし実態は、戦車、戦闘車両、無人兵器、対空システム、各種誘導兵器まで幅広く手掛ける巨大軍需複合企業だった。
その株式の過半数を保有する人物こそ、真利・R・ヴァイン。
彼女が世界最高峰の投資家である一方で、軍需産業にも深く関わっている理由は単純だった。
世界は平和だけでは回らない。
悲しいことに、戦争ですら巨大な市場となる。
利益だけを考えるならば、その市場から目を背ける理由はない。
真利は感情ではなく数字で世界を見てきた。
だからこそ、この企業は彼女の資産の中でも重要な柱となっていた。
夜風が吹き抜ける。
本社から数百メートル離れた高層ビルの屋上。
そこへ、一人の少女が静かに降り立った。
黒を基調とした軽装。
腰には一本の日本刀。
その姿は観光客でも学生でもない。
戦場へ向かう騎士だった。
「……ここが目的地か」
剣崎凛は眼下の巨大施設を見下ろえる。
広大な敷地。
二十四時間体制で動き続ける工場。
厳重な警備。
監視カメラ。
赤外線センサー。
武装警備員。
一般人が近付くことすら困難な要塞。
だが凛の表情に迷いはなかった。
耳へ装着した小型通信機から、落ち着いた女性の声が届く。
『凛さん、現在位置を確認しました』
「摩夜か」
『ええ。現地監視システムへの侵入は完了している。今から三十分間、監視映像は正常な記録を流し続ける』
「助かる」
『熱源探知も誤作動を起こすよう細工済みだ。外周警備は君を認識しない』
通信越しでも分かるほど淡々とした口調。
黒沼摩夜は既に情報戦を終えていた。
凛は小さく息を吐く。
「さすがだ」
『褒め言葉として受け取っておくよ』
短いやり取りで通信は終わる。
その直後。
別の声が聞こえた。
『凛さん』
西園寺聖奈だった。
凛は自然と背筋を伸ばす。
「聖奈様」
『改めて確認します』
その声は穏やかだった。
だが内容は一切の迷いがない。
『今回の目的は殺傷ではありません』
「承知しております」
『私たちは勇者様の仲間です』
一拍置く。
『勇者様が望まれないことは致しません』
「はい」
『ですが』
聖奈の声音が僅かに鋭くなる。
『勇者様へ敵意を向ける者を、そのまま見逃すつもりもありません』
凛の瞳が静かに細くなる。
『真利さんは勇者様を"資産"として奪おうとしました』
『それは私たちへの宣戦布告です』
『ですから私は、企業同士の戦争として応じます』
『その第一手を、あなたへお願いしました』
凛は静かに頷いた。
「必ず果たします」
『ありがとうございます』
聖奈は一度言葉を切る。
『行動目標を確認します』
凛は夜景の中に浮かぶ巨大工場を見据えた。
『目標はアーク・アーマメント・システムズの軍需生産能力を著しく低下させること』
『人的被害は可能な限りゼロ』
『重要設備のみを破壊』
『復旧に長期間を要する損害を与える』
『そして』
聖奈は静かに言い切った。
『真利さんへ、勇者様には私たちが付いていると理解していただきます』
「……了解しました」
通信が終わる。
静寂。
凛はゆっくりと刀へ手を添えた。
主から授かった一振り。
京都で、主自ら鍛えた刀。
あの日。
巨大なアダマンタイトの柱を紙のように切り裂いた奇跡の一振り。
柄を握るだけで、不思議と心が落ち着く。
「主……」
凛は目を閉じた。
現代日本。
学校。
動画撮影。
笑顔。
賑やかな仲間たち。
その全てを胸の奥へしまい込む。
代わりに呼び覚ます。
異世界で王国最強の騎士団長として戦い続けた日々。
魔王軍との戦場。
血煙。
剣戟。
仲間を守るためだけに剣を振るっていた頃の精神。
呼吸が変わる。
立ち姿が変わる。
少女だった雰囲気は消え失せる。
そこに立つのは、一国最強と謳われた騎士団長リーゼロッテ。
凛は静かに刀を抜いた。
月明かりを受けた刃が、青白く輝く。
「主の敵に情けは不要」
低く、静かな声。
その眼差しには一切の揺らぎがなかった。
「任務を開始する」
次の瞬間。
凛の姿は夜の闇へ溶けるように消えた。
――――――
夜の静寂を切り裂くことなく、凛は施設外周のフェンスへ近付いた。
高さ四メートル。
上部には有刺鉄線。
さらに振動検知装置まで取り付けられている。
正面突破を想定した防御。
しかし、凛が相手にするのは戦場でも城塞でもない。
警備会社が設計した現代の要塞だった。
「……なるほど」
わずかに周囲へ視線を巡らせる。
一定間隔で巡回する武装警備員。
屋上を旋回する監視ドローン。
赤く点滅する赤外線センサー。
夜間用の熱源探知装置。
そして、低く唸り声を上げながら巡回する数頭のガードドッグ。
どれも一流企業らしい隙のない配置だった。
「ですが」
凛は静かに息を整える。
「主がお守りになった世界である以上、人を斬る理由にはなりません」
彼女の目的は戦うことではない。
見つからないこと。
それこそが今回の任務だった。
通信機から摩夜の声が届く。
『予定通り北西区画の監視映像を二十秒だけずらす』
「了解」
『ドローンは旋回周期が変わる。今』
その一言だけだった。
凛は地面を蹴る。
音はほとんど生まれない。
人間離れした脚力で一気にフェンス最上部へ到達すると、有刺鉄線へ触れることなく身体を反転させ、そのまま施設内へ着地した。
芝生がわずかに揺れる。
それだけだった。
巡回していた警備員は誰一人として気付かない。
『侵入成功』
「問題ありません」
凛は建物の影だけを選ぶように進んでいく。
数秒後。
二人の警備員が交差する通路へ差しかかった。
一人が右から。
もう一人が左から。
死角はない。
普通なら足止めされる配置だった。
しかし凛は迷わない。
壁面へ一歩。
さらにもう一歩。
重力を無視したように外壁を駆け上がり、そのまま三階部分の細い窓枠へ着地する。
二人の警備員はすぐ下を通り過ぎていった。
「異世界では珍しくありませんでしたが……」
ぽつりと漏らす。
「現代では少々目立ちますね」
『十分目立ってると思うけど』
摩夜が思わず苦笑する。
『映像は全部こちらで処理してるから安心して』
「頼りにしています」
凛は再び前へ進む。
今度は低い唸り声が聞こえた。
三頭のガードドッグ。
大型犬とは思えない体格。
鋭い嗅覚で侵入者を探している。
そのうち一頭が鼻先を上げた。
空気を嗅ぐ。
わずかに凛の方向へ顔を向けた。
「……」
凛は完全に静止した。
呼吸すら止める。
風が吹く。
木々が揺れる。
犬たちは再び別方向へ歩き始めた。
『見事だね』
「戦場では、魔物の嗅覚の方が遥かに優秀でした」
当然のような返答だった。
異世界では巨大な魔狼や飛竜の索敵を潜り抜ける任務も経験している。
この程度であれば、警戒すべき対象ですらない。
建物へ到着する。
正面玄関は分厚い防弾ガラス。
生体認証。
カード認証。
暗証番号。
三重認証となっていた。
凛は迷わず建物の側面へ回る。
『目的地は最上階』
「確認しています」
『真利・R・ヴァイン直属副社長、アレクサンダー・クロフト執務室』
『オフライン管理庫への専用アクセス権を持つ人物だ』
「まずはそこを押さえます」
窓を見上げる。
四階。
五階。
六階。
そして最上階。
ガラス張りの壁面には足場など存在しない。
普通の人間なら登れない。
凛は腰へ差した日本刀へ静かに触れた。
「主」
その一言だけを呟く。
次の瞬間。
彼女の身体は夜空へ跳び上がった。
まるで重力そのものが存在しないかのように。
一階。
二階。
三階。
壁面を蹴るたび、音もなく高度を上げていく。
数秒後には最上階外壁へ張り付き、暗い執務室を見下ろしていた。
分厚い防弾ガラスの向こう。
世界有数の軍需企業を実質的に動かす男の部屋が、静かにそこにあった。
凛はゆっくりと周囲を確認する。
警備員二名。
監視カメラ四台。
赤外線センサー。
室内警報装置。
そして執務室のさらに奥には、目的であるオフライン資料保管庫へ続く専用扉が見えていた。
「ようやく辿り着きました」
その瞳には、一切の焦りも油断もない。
任務は、ここからが本番だった。
最上階。
副社長アレクサンダー・クロフト執務室。
凛はガラスへそっと手を添えた。
窓は軍用レベルの防弾・防爆ガラス。
力任せに破壊すれば警報が鳴り響く。
だから――。
凛は静かに刀を抜いた。
主から授かった一振り。
「……失礼します」
刃がわずかに煌めく。
次の瞬間、刀は音もなく振るわれた。
ガラスは砕けない。
割れることもない。
ただ、人ひとりが通れる長方形だけが切り抜かれ、内側へ滑るように倒れた。
切断面は鏡のように滑らかだった。
凛は切り抜かれた隙間から静かに室内へ侵入する。
『侵入確認』
摩夜の声が届く。
『室内の通信機器をスキャンする』
「お願いします」
凛は胸ポケットから、小さな黒い装置を取り出した。
大きさはスマートフォンほど。
外見は無線ルーターにも見えるが、その内部には西園寺グループと摩夜が共同で製作した特別製の装置が組み込まれている。
電源を入れる。
淡い青色のランプが点灯した。
『起動確認』
摩夜が即座に応じる。
『これから周囲に存在するネットワーク機能付き機器へ強制接続を開始する』
「オフライン端末もですか」
『ネットワーク機能さえ搭載されていればね』
摩夜が少しだけ得意そうに笑う。
『企業が「オフライン運用」と呼んでいる端末の大半は、通信機能そのものを取り除いているわけじゃない』
『普段は機能停止させているだけ』
『だから、この装置で一瞬だけ眠っている通信機能を起こす』
青いランプが点滅へ変わる。
それと同時だった。
『来た』
摩夜の声が少し弾む。
『デスクトップ一台』
『ノートパソコン二台』
『金庫内管理システム』
『バックアップストレージ三基』
『暗号化サーバー』
『全部繋がった』
凛は感心したように小さく頷く。
「流石です」
『後は私の仕事』
摩夜の指先が高速でキーボードを叩く音が通信越しに聞こえる。
『コピーは取らない』
『痕跡も残さない』
『必要な情報だけ抜き出して、削除対象は後でまとめて処理する』
『凛はそっちをお願い』
「了解しました」
通信を終えると、凛は執務室を見渡した。
壁一面に並ぶ書棚。
重厚な木製机。
飾られた勲章や記念盾。
世界各国の要人と写る写真。
どれも、この企業が巨大な権力を持つ証だった。
しかし凛の興味はそこにはない。
目的は情報。
それだけだった。
まず机。
引き出しを順番に確認する。
契約書。
会議資料。
名刺。
筆記具。
どれも一般的な業務書類ばかりだ。
必要と思われる数枚だけをスマートフォンで撮影する。
「摩夜」
『見えてる』
「内容の解析をお願いします」
『任せて』
続いて書棚。
厚いファイルが何十冊も並んでいる。
凛は表紙だけを素早く確認していく。
「人事……財務……輸送管理……」
その中で一冊だけ手が止まる。
『極秘 次世代兵器開発計画』
凛は迷わずスマートフォンを取り出した。
ページを高速でめくりながら撮影していく。
シャッター音は鳴らない。
『受信した』
今度は聖奈の声だった。
『ありがとうございます』
「重要そうでしたので」
『ええ。解析はこちらで行います』
「お願いします」
そのまま部屋の奥へ進む。
重厚な絵画。
凛は額縁へ触れる。
わずかに動いた。
「隠し金庫ですね」
絵画を横へ滑らせる。
現れたのは大型耐火金庫。
電子認証。
ダイヤル式。
指紋認証。
三重ロック。
凛は数秒だけ眺めた。
「開錠は苦手です」
そう呟きながら刀を構える。
一閃。
金属音すらほとんど響かない。
厚さ三十センチ近い特殊鋼製の金庫が、まるで羊羹を切るように斜めへ切断された。
上半分がゆっくりとずれ落ちる。
中には大量の資産が保管されていた。
札束。
金インゴット。
ダイヤモンド。
ルビー。
エメラルド。
高級腕時計。
美術品の権利証。
凛は一切手を付けない。
「資産そのものには興味ありません」
目的は、あくまで真利の軍需産業へ打撃を与えること。
略奪ではない。
金庫の奥をさらに確認する。
宝飾品の下。
二重底になっている収納部。
そこから、数冊の黒いファイルと紙の封筒が現れた。
「こちらですね」
凛は一冊ずつ丁寧に開き、スマートフォンで撮影していく。
兵器輸出契約。
研究開発予算。
製造工程一覧。
生産ライン配置図。
工場別管理責任者一覧。
どれも現物でしか保管されていない重要書類だった。
『受信しました』
聖奈が静かに告げる。
『これは……想像以上ですね』
『各工場の中枢情報です』
『解析が終われば、生産設備の重要箇所を正確に特定できます』
凛は最後の一枚まで撮影を終える。
封筒を元へ戻すことはしない。
机の上へ整然と積み上げる。
「情報収集、完了しました」
『こちらもほぼ終了』
摩夜が応じる。
『オンライン側は全部把握した』
『後は凛の合図と同時に、一斉削除へ移る』
凛は静かに頷き、執務室のさらに奥へ視線を向ける。
厚い鋼鉄製の扉。
その先こそが、アーク・アーマメント・システムズの生産を支える最後の砦――オフライン資料保管庫だった。
「では、本命へ向かいます」
鋼鉄製の扉の前へ立つ。
副社長執務室とは明らかに異なる空気が漂っていた。
重厚な扉には警告文が刻まれている。
**AUTHORIZED PERSONNEL ONLY**
**MASTER PRODUCTION ARCHIVE**
「ここですね」
凛は静かに刀を構えた。
電子ロック。
生体認証。
物理ロック。
分厚い特殊鋼。
どれほど堅牢であろうとも、彼女の前では意味を成さない。
一閃。
音はほとんど響かなかった。
扉は切断面だけを残し、静かに内側へ倒れる。
保管庫の中には冷気が満ちていた。
温湿度は一定に保たれ、天井まで届く書架が何列も並んでいる。
紙媒体のファイル。
耐火ケース。
光学ディスク。
磁気テープ。
耐衝撃ケースへ収められたバックアップ媒体。
すべてが厳重に分類され、番号順に保管されていた。
凛は棚を見渡し、小さく息を吐く。
「……これほどとは」
通信機から摩夜の声が届く。
『当たり』
「どういうことですか」
『企業の心臓部だよ』
摩夜の声は普段以上に真剣だった。
『オンラインのデータが消えても、生産設備そのものは残る』
『だから事故や災害、あるいはサイバー攻撃を受けた時に備えて、ここへ完全な復旧資料を保管してある』
『設計図だけじゃない』
『製造装置の校正値』
『制御プログラム』
『部品配置』
『ライン調整記録』
『更新履歴』
『全部ここ』
凛は静かに頷いた。
「つまり」
『ここを失えば、生産ラインを元通りに復旧するまで莫大な時間が必要になる』
『オンライン側を私が処理しても、ここが残れば再構築できる』
『逆に、ここも失えば復旧は一気に難しくなる』
凛は棚へ歩み寄る。
ラベルを確認する。
『戦術車両製造ライン』
『誘導制御装置』
『複合装甲工程』
『高精度加工設備』
『工場別マスターアーカイブ』
どれも企業の根幹を支える資料だった。
「確認を開始します」
スマートフォンを取り出し、棚ごと撮影していく。
一冊ずつ。
一枚ずつ。
必要に応じてページを開き、図面や管理表も撮影する。
摩夜は受信するたびに内容を確認していった。
『受信』
『問題なし』
『続けて』
撮影は十分ほど続いた。
やがて最後のラックまで確認を終えたところで、通信が入る。
『凛』
「はい」
『もう十分』
摩夜が静かに告げる。
『必要な情報は全部受け取った』
『復旧に必要な構成も把握できた』
続いて聖奈の声が重なる。
『私も確認しました』
『この保管庫にある資料は、生産設備そのものを維持・復旧するための中核情報です』
『目的達成のためには、ここを残すわけにはいきません』
凛は静かに目を閉じる。
「承知しました」
返事は短い。
迷いはなかった。
刀をゆっくりと抜く。
月光を映した刃が、静かに青白く輝いた。
「主は必要のない破壊を望まれません」
保管庫を見渡す。
「だから私は、人ではなく情報だけを断ちます」
刀を構える。
そして、一歩踏み込んだ。
銀閃が走る。
紙束が舞い上がる。
しかし、ただ切断されたわけではない。
凛の剣筋は、一冊のファイルを幾百、幾千という細片へと変えていく。
次の一振り。
また次の一振り。
書架を埋め尽くしていた資料が、雪のように宙を舞う。
紙だけではない。
光学ディスクは円形を失い、判別不能な破片となる。
磁気テープは細い繊維片となって床へ降り積もる。
耐火ケースごと収められていた媒体も、中身ごと均一な細片へ変わっていく。
刃は一度として止まらない。
静かで、美しい剣舞。
異世界で魔王軍を相手に磨き続けた剣技は、今や紙一枚の繊維まで意のままに断つ領域へ達していた。
数分後。
保管庫の床は白い紙片で埋め尽くされていた。
どの断片も指先ほどの大きさすらない。
文字を繋ぎ合わせることも、図面を復元することも不可能なほど細かく裁断されている。
凛は静かに周囲を見回した。
「……これなら」
しゃがみ込み、一片を摘み上げる。
そこには、もはや一文字すら判別できない。
通信機から摩夜が息を漏らした。
『ここまで細かいと、復元はまず無理だね』
聖奈も静かに続ける。
『ありがとうございます、凛さん』
『これでオフライン側の中核資料は失われました』
凛は紙片をそっと床へ戻した。
「後はオンラインですね」
『ええ』
摩夜の声が落ち着きを取り戻す。
『凛の離脱準備が整ったら、こちらも同時に実行する』
『アーク・アーマメント・システムズの生産管理情報は、この瞬間を境に世界から姿を消す』
凛は刀を静かに鞘へ納める。
任務は、いよいよ最後の段階へと移ろうとしていた。
保管庫を後にした凛は、執務室のさらに奥へと足を進める。
そこには、一般社員は立ち入ることのできない小部屋があった。
扉の脇にはプレートが掛けられている。
**CENTRAL PRODUCTION CONTROL**
生産統括管理室。
世界各地の工場を制御する基幹システムが収められた部屋だった。
凛は静かに扉を見つめる。
「ここが最後ですね」
『うん』
摩夜が短く答える。
『この部屋だけは、オンラインから完全に切り離されてる』
『だから直接行ってもらう必要があった』
「承知しています」
刀が一閃する。
厚い鋼鉄製の扉が音もなく切り開かれ、凛は室内へ足を踏み入れた。
室内は無人だった。
壁一面に並ぶ大型ラック。
規則正しく点滅するランプ。
低く響く冷却ファンの音。
ここだけは、今なお世界中の工場へ命令を送り続ける頭脳であり続けていた。
『右から二番目』
摩夜が即座に指示を出す。
『銀色の筐体』
『前面パネルを開けるとUSBポートがある』
凛は言われた通りに歩み寄る。
前面パネルを開く。
確かに一つだけUSB端子が用意されていた。
「これですね」
ポケットから小さなUSBメモリを取り出す。
見た目はどこにでもある市販品と変わらない。
「これを挿すだけでよろしいのですか」
『うん』
摩夜が笑う。
『今回の作戦で一番簡単な仕事』
『中身は全部こっちで作ってある』
『凛は刺して十秒待つだけ』
「便利な時代ですね」
『便利なのは私』
思わず凛も小さく笑みを浮かべた。
「確かに」
USBメモリを差し込む。
小さなアクセスランプが点滅した。
『開始』
摩夜の声が一段低くなる。
『管理権限取得』
『監査機能停止』
『保護プロセス無効化』
『自己修復機能停止』
『バックアップ同期遮断』
次々と報告が入る。
凛には専門的な内容までは理解できない。
それでも、一つだけ分かることがあった。
摩夜はこの世界における戦場で剣を振るっているのだ。
『五秒』
ランプの点滅が速くなる。
『七秒』
大型ラックの一部が自動的に再起動を始める。
『九秒』
そして。
『完了』
ランプが緑色へ変わった。
『終了』
凛は静かにUSBメモリを抜き取る。
「任務完了ですか」
『現地作業はね』
『後は私が全部終わらせる』
凛は一度だけ部屋を見渡した。
機械そのものを破壊する必要はない。
目的は設備ではなく、生産能力を失わせること。
復旧のための情報は、既に失われた。
後は、その事実を機械自身へ教えるだけで十分だった。
「では、離脱します」
『了解』
来た道を戻る。
切り抜いた窓から外へ出る。
夜風が頬を撫でた。
警備員たちは誰一人として異変に気付いていない。
ガードドッグも静かに巡回を続けている。
監視カメラには、いつもと変わらない夜の映像だけが映り続けていた。
凛は屋上から隣の建物へ飛び移り、そのまま夜の街へ溶け込んでいく。
数分後。
人気のない場所まで移動したところで通信機が鳴った。
『凛』
摩夜だった。
『終わった』
「状況をお願いします」
『オンライン管理情報』
『設計データ』
『工場制御データ』
『更新履歴』
『分散バックアップ』
『クラウド保管領域』
『海外ミラーサーバー』
『全部消した』
淡々とした口調。
しかし、その一言一言には絶対の自信があった。
『復元ポイントも残ってない』
『削除ログも消去済み』
『相手は何が起きたか調べることすらできない』
続いて聖奈の声が入る。
『凛さん、お疲れ様でした』
「任務完了いたしました」
『ありがとうございます』
その声には安堵が滲んでいた。
『これで真利さんが誇る軍需産業は、設備が残っていても生産能力を大きく失いました』
『短期間での復旧は不可能でしょう』
凛は夜空を見上げる。
異世界では城を落とすことも、魔王軍の補給拠点を断つことも経験してきた。
だが今回の戦いは、それらとはまったく違う。
剣だけでは勝てない時代。
情報を制する者が戦場を制する時代。
その中で、自分は仲間たちに支えられて剣を振るうことができた。
「皆のお力があってこその任務でした」
『こちらこそ』
摩夜が笑う。
『凛がいなければ私は何もできなかった』
『次は私の番』
短い言葉だった。
しかし、その一言に次の戦いへの覚悟が込められていた。
「お願いします」
通信を終える。
凛はコートの襟を整え、そのまま空港へ向かって歩き出した。
数時間後。
夜明け前の旅客機は静かに滑走路を離れる。
窓際の席へ腰掛けた凛は、ゆっくりと目を閉じた。
任務は成功した。
しかし、これは終わりではない。
真利との戦いは、まだ始まったばかりだった。
そして次に動くのは――情報戦を司る少女、黒沼摩夜である。




