第61話 寄付金戦争、開戦
世界有数の投資会社。
その最上階。
全面ガラス張りの会議室には、朝日が静かに差し込んでいた。
長いテーブルの先に座るのは、真利・R・ヴァイン。
その向かいには、私立青葉高校の校長が少し緊張した面持ちで腰を下ろしている。
校長は六十代半ば。
教育者として長年学校を支えてきた人物であり、生徒思いな性格でも知られていた。
そしてもう一つ。
彼は炎の勇者チャンネルの熱心な視聴者でもある。
「本日は、このような場を設けていただきありがとうございます」
校長が丁寧に頭を下げる。
真利は柔らかな笑みを浮かべた。
「こちらこそ、お時間をいただき感謝しておりますわ」
その物腰は上品で穏やか。
とても世界中の市場を動かす投資家には見えない。
秘書が一冊の資料を校長の前へ置いた。
「こちらが、本日のお話になります」
「失礼します」
校長は資料を開き――その瞬間、目を見開いた。
「……え?」
最初に飛び込んできた数字を二度見する。
三度見する。
そして眼鏡を外してレンズを拭いた。
「じゅ……十億円?」
思わず素の声が漏れた。
「はい」
真利は当然のようにうなずく。
「青葉高校への寄付金ですわ」
「…………」
校長はしばらく固まった。
十万円ではない。
百万円でもない。
一億円ですらない。
十億円。
一つの高校へ寄付する額としては、常識を完全に超えていた。
「さ、さすがに桁が……」
「不足でしょうか?」
「いえ逆です!」
校長は慌てて首を振る。
「多すぎます!」
「そうでしょうか」
真利は首をかしげた。
「教育への投資は、未来への投資です。私は優秀な人材が育つ環境へ資本を投入することに価値を感じています」
実にもっともらしい理由だった。
教育機関への寄付。
人材育成。
社会貢献。
どれも非の打ち所がない。
「もちろん設備投資でも構いませんし、奨学金制度でも、新校舎建設でも、ご自由にお使いください」
「……」
校長は資料を見つめたまま息を飲む。
体育館を建て替えられる。
老朽化した校舎も直せる。
最新設備も導入できる。
部活動への支援も。
学費免除も。
教師の環境改善まで視野に入る。
十億円という数字は、それほどまでに大きかった。
「ですが」
真利は静かに続ける。
「一つだけお願いがございます」
校長の表情が引き締まる。
「お願い、ですか」
「ええ」
真利は一枚の紙を取り出した。
「現在、御校では炎の勇者チャンネルの撮影へ比較的寛容な対応をされていますわね」
「それは……」
校長は苦笑する。
比較的どころではない。
学校行事への協力。
撮影許可。
施設利用。
可能な限り便宜を図っている。
もちろん、生徒たちへの影響を考えた上での判断でもある。
何より――。
(私も毎回動画を楽しみにしていますからねぇ……)
心の中で小さくつぶやく。
黄金竜の動画など、公開から三回見返していた。
「実は」
真利が静かに口を開く。
「私は、生徒が学業へ集中できる環境を第一に考えておりますの」
理路整然とした口調。
「動画撮影によって一般見学者が集まり、学校生活へ影響が出ることは、本来望ましい状態ではありません」
「……確かに」
校長も否定はできない。
最近では校門前へ見物客が集まることもある。
警備を強化した日もあった。
「ですので」
真利は資料を一枚めくる。
「今後は校内での撮影許可を原則取り消し。部活動や学校施設の使用も制限。校門前での撮影も禁止。動画投稿を目的とした学校利用は認めない方向でご検討いただけませんでしょうか」
「……!」
校長の表情が固まる。
つまり。
ハルトたちの活動を学校から締め出したい。
そういう話だった。
「もちろん」
真利は穏やかに微笑む。
「私は教育環境を守りたいだけです」
言葉だけ聞けば、正論だった。
だが。
校長は教育者としてだけではなく、一人の人間として直感する。
(これは……)
(一ノ瀬君を狙っていますね)
十億円。
その見返りとしてはあまりにも限定的な要求。
学校全体ではない。
狙いは炎の勇者チャンネルだけ。
「申し訳ありません」
校長は慎重に言葉を選ぶ。
「その件につきましては、すぐに返答することはできません」
「理由を伺っても?」
「本校は以前より、西園寺グループから多大なご支援をいただいております」
真利の目がわずかに細くなる。
校長は続けた。
「現在の校舎改修。
ICT設備。
図書館の拡張。
多くの教育環境は西園寺グループの支援で実現しております」
つまり。
青葉高校には、すでにもう一人の大スポンサーがいる。
「西園寺さんからは、一ノ瀬君たちの活動を可能な限り支援してほしい、というご要望をいただいております」
「なるほど」
真利は静かにうなずく。
予想通りだった。
「正反対、ということですか」
「はい」
校長は苦笑した。
「どちらも学校のためを思ってくださっていることは理解しております」
十億円を提示する世界最高峰の投資家。
世界有数の財閥令嬢。
どちらも高校生一人を巡って争っている。
(誰が想像しますか、こんな状況……)
校長は内心で頭を抱えた。
「ですので」
校長は姿勢を正す。
「私の一存では決められません。一度、西園寺グループとも相談させていただきたいと思います」
「構いませんわ」
真利は即答した。
むしろ、それを待っていた。
静かに立ち上がる。
「でしたら、その返答は西園寺聖奈さんのお返事と一緒に伺いましょう」
校長も立ち上がる。
「ありがとうございます」
真利は扉へ向かい、ふと足を止めた。
振り返る。
その笑顔は変わらず美しい。
だが、その瞳だけは獲物を見据える投資家の光を宿していた。
「校長先生」
「はい」
「もし、この要求を取り下げてほしいと一ノ瀬晴人さんがおっしゃるのでしたら」
一拍置く。
静かな声だった。
だからこそ重い。
「私の会社へ来るよう、お伝えください」
校長が息をのむ。
「私のものになっていただけるのであれば、この程度の条件など、いつでも白紙に戻しますわ」
それだけ告げると、真利は優雅に一礼した。
「それでは、お返事を楽しみにしております」
扉が静かに閉まる。
会議室には静寂だけが残った。
校長は椅子へ座り直し、大きく息を吐く。
「……これは」
額を押さえる。
「教育会議じゃない」
ぽつりと漏らした。
「世界最高峰のお金持ち同士の戦争じゃないですか……」
――――――
青葉高校。
校長室。
窓の外では、運動場から部活動の掛け声が聞こえてくる。
普段なら心が落ち着くこの景色も、今日ばかりは校長の胃を痛める原因にしかならなかった。
「はぁ……」
机に置かれた二つの資料へ視線を落とす。
一つは、西園寺グループによる支援実績。
もう一つは、真利・R・ヴァインから提示された十億円の寄付契約書。
どちらも学校にとって断り難い存在だった。
コンコン。
「どうぞ」
扉が開き、西園寺聖奈が静かに入室する。
「失礼いたします」
今日も制服姿ながら、その立ち居振る舞いは名家の令嬢そのものだった。
校長は立ち上がって迎える。
「お忙しい中、お時間をいただきありがとうございます」
「いえ。校長先生からお呼び出しとのことでしたので」
聖奈は柔らかく微笑み、応接用のソファへ腰掛ける。
校長も向かいへ座った。
「本日は、少々困ったご相談がありまして……」
「真利・R・ヴァイン様の件ですね」
校長が目を丸くする。
「もうご存じでしたか」
「ええ。勇者様へ宣戦布告をなさった時点で、ある程度の行動は予想しておりました」
落ち着いた声だった。
まるで予定表でも確認するような口調に、校長は苦笑する。
「やはりそうでしたか」
机の上の資料を聖奈へ差し出す。
「こちらをご覧ください」
聖奈は一枚ずつ目を通していく。
寄付金額。
条件。
学校施設の利用制限。
動画撮影の禁止。
校門前での撮影規制。
読み終えた聖奈は静かに資料を閉じた。
「なるほど」
その表情は崩れない。
「学校を入口にして、勇者様の活動範囲を狭めるおつもりですか」
「私も、そのように受け取りました」
校長は深くうなずく。
「ですが……」
困ったように笑う。
「学校という立場上、寄付金を簡単に断ることもできません」
教育現場には常に予算の問題がある。
古くなった設備。
老朽化した校舎。
新しい教材。
どれも必要だ。
「十億円もの寄付となれば、生徒たちへ還元できるものがあまりにも大きいのです」
「当然のご判断です」
聖奈は即座に答えた。
そこに責める色は一切ない。
「学校は生徒のためにございます。その判断は正しいかと」
「ありがとうございます」
校長は少しだけ肩の力を抜く。
「ですが、受け取った以上は、寄付者の要望にも一定程度応える必要があります」
それが寄付というものだった。
もちろん違法な要求なら話は別だ。
しかし今回の要求は、
『教育環境を守るため』
という大義名分で包まれている。
学校として完全に拒絶するには理由が弱い。
「正直に申し上げます」
校長は額へ手を当てた。
「非常に困っています」
教育者として。
学校運営者として。
そして炎の勇者チャンネルの一視聴者として。
「私は、一ノ瀬君たちの活動を応援しています」
少し照れくさそうに笑う。
「動画は毎回拝見しておりますので」
聖奈も思わず口元を緩めた。
「ありがとうございます。勇者様もきっとお喜びになります」
「しかし、それと学校運営は別問題です」
校長は真剣な表情へ戻る。
「学校全体を考えれば、十億円という金額は無視できません」
しばらく静寂が流れる。
やがて聖奈は静かに口を開いた。
「でしたら」
「はい」
「私が、それ以上をご寄付いたします」
「……え?」
校長が固まる。
聖奈は、ごく自然な口調で続けた。
「真利様の寄付をお断りいただけるのでしたら、それに見合う金額は西園寺グループよりご用意いたします」
「い、いやいや!」
校長は慌てて両手を振る。
「そういう問題ではありません!」
「問題ありません」
「あります!」
思わず大きな声になる。
「寄付金で寄付金を打ち消すという前例は、さすがに学校としても……!」
「そうでしょうか」
「そうなんです!」
校長は思わず頭を抱えた。
「これでは学校が競売会場になってしまいます……」
聖奈は少しだけ考え込む。
「では、二十億円ほどでしたら」
「増やさないでください!」
校長の悲鳴に近い声が校長室へ響いた。
聖奈は本気だった。
彼女にとっては勇者の活動環境を守るための必要経費でしかない。
だから金額を積み上げることに何の迷いもない。
だが校長にしてみれば、胃薬がいくらあっても足りない話だった。
「西園寺さん」
「はい」
「私は教育者です」
校長は力なく笑う。
「世界最高峰のお金持ち同士の入札を仲介する職業ではありません」
聖奈は一瞬だけ目を丸くし、くすりと笑った。
「申し訳ございません」
「いえ、西園寺さんが悪いわけではありません」
校長は首を振る。
「ただ……私にも限界があります」
机へ置かれた二つの資料を見比べる。
「これ以上、お二人のご要望を学校が間に入って調整し続けるのは難しいでしょう」
そして、一つの結論を口にした。
「もしよろしければ」
「はい」
「真利様と直接お話しいただけませんか」
聖奈は静かに校長を見つめる。
「学校を通してではなく、お二人で」
「直接、ですか」
「その方が、お互いのお考えも伝わるでしょう」
校長は苦笑する。
「正直申し上げて、私の胃が先に限界を迎えそうです」
聖奈は数秒だけ考え――静かにうなずいた。
「承知いたしました」
その青い瞳には、穏やかな光が宿っている。
だが、その奥では。
(真利様)
(勇者様を資本で縛ろうというのであれば、お相手いたします)
王女だった少女の静かな闘志が燃え始めていた。
こうして。
青葉高校を舞台に始まった寄付金騒動は。
学校同士の話し合いでは終わらず。
世界最高峰の投資家と、日本屈指の財閥令嬢。
二人による、本当のマネーゲームへと発展していくのだった。
――――――
放課後。
西園寺家。
聖奈の私室。
広々とした部屋には夕日が差し込み、机の上には青葉高校から受け取った資料が静かに並べられていた。
寄付契約書。
要求内容。
校長との面談記録。
聖奈はそれらを一枚ずつ整理しながら、静かに思考を巡らせる。
「……やはり」
小さく呟く。
「真利様は、お諦めになりませんね」
その結論だけは、最初から変わらなかった。
普通の相手なら違う。
一度断られれば次の方法を考える。
採算が合わなければ撤退する。
利益が見込めなければ別の投資先へ向かう。
それが合理的な判断だ。
しかし。
「真利様は違います」
資料へ視線を落とす。
世界中の企業を買収してきた投資家。
その行動原理は、損得だけでは説明できない。
欲しいと思ったものは手に入れる。
その一点において、驚くほど執着する人物だ。
「十億円の寄付も、その一手に過ぎません」
学校が断れば次。
聖奈が止めれば、その次。
企業。
行政。
世論。
海外。
資本。
政治。
利用できるものがある限り、真利は盤面を動かし続ける。
「一つ失敗した程度で止まるお方ではございません」
静かに息を吐く。
もし学校が断ったとしても終わらない。
それは真利自身も理解している。
十億円を失うことすら、試しの一手程度にしか考えていないはずだ。
だからこそ。
「問題は金額ではございません」
百億円でも。
千億円でも。
一兆円でも。
勝負の本質はそこではない。
真利は。
どういう形であれ。
どういう手段であれ。
必ず一ノ瀬晴人という存在を手に入れようとする。
その未来だけを目指して動き続ける。
途中で引き返すという選択肢は存在しない。
聖奈は静かに窓際へ歩く。
夕焼けに染まる街を見下ろす。
「……ですが」
その青い瞳が細められる。
「それだけは」
ゆっくりと首を横へ振った。
「絶対に認めることはできません」
勇者様は物ではない。
誰かが所有する存在でもない。
ましてや。
金額で価値を決められるような人では決してない。
あの人は、自分の意思で笑い。
自分の意思で人を助け。
自分の意思で動画を撮り。
自分の意思で未来を選ぶ人だ。
「勇者様が誰かの所有物になる未来など」
静かな声だった。
しかし、その決意は鋼よりも固い。
「わたくしは許容できません」
部屋には時計の秒針だけが響く。
聖奈は改めて資料を見つめた。
校長が提案した直接会談。
おそらく真利も受けるだろう。
だが。
「お話し合いで解決するとは思えませんね」
苦笑が漏れる。
互いに相手の考えは理解している。
だからこそ、歩み寄れない。
真利は手に入れたい。
聖奈は守りたい。
目指す未来そのものが正反対だった。
「これは条件交渉ではございません」
金額の問題でも。
契約の問題でも。
価値観の問題ですらない。
目の前にあるのは。
未来の奪い合い。
勇者様が誰と歩むのか。
その未来を巡る戦いだった。
聖奈は静かに資料を閉じる。
「つまり」
一つの結論が胸の中で形になる。
「真利様との戦いは、話し合いでどうにかなるものではございません」
穏やかな笑みは消えていない。
しかし、その瞳には王女として幾度も国を守るため戦場へ立った頃と同じ覚悟が宿っていた。
「でしたら」
静かに立ち上がる。
「わたくしも、最後までお相手いたします」
その宣言を聞く者は誰もいない。
それでも。
西園寺聖奈の決意は、この瞬間、完全に固まったのだった。
静まり返った私室。
聖奈はソファへ腰掛け、ゆっくりと目を閉じた。
「……まずは、戦力の確認ですね」
感情だけで勝てる相手ではない。
真利・R・ヴァイン。
世界中の企業を買収し、資本市場を支配してきた投資家。
その相手と向き合う以上、自分の手札を正確に把握する必要があった。
「わたくしが持つ最大の力」
それは、自分自身ではない。
「西園寺グループ」
世界規模で事業を展開する巨大財閥。
金融。
製造。
物流。
不動産。
医療。
エネルギー。
情報通信。
航空。
宇宙開発。
世界中のあらゆる産業へ資本を投じ、その総資産は国家予算と比較されることすらある。
そして。
その規模は、真利が率いる企業連合をも上回る。
「総資産だけを比較するのであれば」
聖奈は静かに資料を見つめる。
「西園寺グループに軍配が上がります」
それは客観的な事実だった。
世界最大級の財閥。
その看板は、どこの国でも絶大な信用を持つ。
「そして、わたくし自身も」
幼い頃から経営を学び。
投資判断を学び。
交渉術を学び。
数字で評価され続けてきた。
ただの令嬢ではない。
西園寺グループの次代を担う経営者候補として育てられた存在だった。
高校生でありながら、いくつもの事業判断へ意見を求められる。
その提案が数百億円規模の利益を生み出したことも、一度や二度ではない。
「祖父や父からも、一定の裁量権を預けていただいております」
だからこそ。
勇者チャンネルへの支援。
株式会社炎の勇者への出資。
京都旅行の手配。
そうした決断も迅速に行えた。
西園寺聖奈という個人は、すでに西園寺グループの意思決定へ影響を与えられる立場にある。
「個人資産も、一般的な尺度で申し上げれば十分過ぎるほどございます」
株式。
配当。
信託資産。
各種投資利益。
生涯使い切れないほどの資産を保有している。
だから十億円。
二十億円。
その程度ならば、迷うことなく動かせる。
だが。
聖奈は静かに首を横へ振った。
「それでも」
今回の相手は真利だった。
「真利様は、ご自身が率いる企業連合のすべてを動員できます」
その違いは大きい。
聖奈は西園寺グループの一員。
極めて大きな権限を持っているとはいえ、最終的な所有者ではない。
グループ全体には株主がいる。
役員会がある。
経営判断がある。
そして何より。
勇者様を守るためだけに、グループ全体を動かすことはできない。
「私情だけで財閥を動かすことは許されません」
それが責任だった。
西園寺グループは何十万人もの従業員と、その家族の生活を支えている。
一人のために全てを賭けることは、経営者として決して選んではならない。
対して。
真利には、それができる。
「真利様は、ご自身の判断のみで企業連合の総力を投入できます」
誰に止められることもない。
誰の承認も必要ない。
自らの全資産。
全企業。
全影響力。
そのすべてを、一ノ瀬晴人という一人の少年へ向けられる。
その執念こそが最大の脅威だった。
「つまり」
聖奈は静かに結論を口にする。
「財閥全体で比較すれば、わたくしたちが優勢」
しかし。
「個人として自由に動かせる資金では、真利様に分がございます」
それは認めざるを得ない現実だった。
だからこそ。
この勝負は単純な資産額では決まらない。
「限られた手札で、いかに勝つか」
それが自分に課せられた役割。
そして。
王女だった頃から、聖奈は常にそうして勝ってきた。
圧倒的な武力ではなく。
限られた戦力を最大限に活かし。
盤面を読み。
相手の思考を先回りする。
「資産ではなく」
聖奈は静かに微笑む。
「戦略で勝負いたしましょう、真利様」
その笑みは穏やかだった。
だが、その瞳には。
世界最大級の財閥を背負う後継者としての、揺るぎない自信が宿っていた。
翌朝。
登校前。
聖奈は一人、車の後部座席で今日の予定を確認していた。
真利との直接会談。
その前に、準備しなければならないことがある。
「……戦力を整えましょう」
今回の相手は、一企業ではない。
世界中へ影響力を持つ投資家。
資本。
情報。
政治。
あらゆる分野へ手を伸ばせる相手だ。
真正面から一人で受け止めるには、あまりにも大きすぎる。
だからこそ。
「協力をお願いする必要があります」
スマートフォンを手に取り、二人へ短いメッセージを送信する。
『放課後、お時間をいただけますでしょうか』
送り先は。
剣崎凛。
そして。
黒沼摩夜。
「このお二人なら」
静かに頷く。
西園寺グループにも、専門部隊は存在する。
護衛部隊。
情報分析部隊。
危機管理部門。
必要とあれば、世界中から人員を集めることも可能だ。
だが。
「今回は大きく動くべきではございません」
西園寺グループが本格的に動けば。
市場は騒ぎ。
企業は警戒し。
真利もまた、本気で迎え撃つ。
そうなれば、戦いは一気に表舞台へ出てしまう。
「まだ、その段階ではありません」
秘密裏に動く。
それが今は最優先だった。
だからこそ。
凛がいる。
「凛さんは、お一人で十分過ぎる戦力です」
異世界最強クラスの騎士団長。
現代兵器の知識こそ浅いものの。
身体能力。
戦闘経験。
判断力。
そして勇者と共に戦い抜いた実績。
それらを総合すれば。
「単独で、現代の武装部隊にも匹敵……いえ」
聖奈は小さく笑う。
「勝る戦力でしょう」
必要ならば。
勇者様へ近づく危険人物を排除する。
護衛する。
抑止力になる。
それだけで十分な価値がある。
そして。
「摩夜さん」
黒沼摩夜。
現職は青葉高校の特別講師。
世間ではオカルトブロガー。
だが、その正体は。
世界中のセキュリティ企業が警戒するほどの技術を持つブラックハッカー。
情報戦なら、これ以上頼れる人物はいない。
「真利様も、情報戦はお得意でしょう」
企業買収。
市場分析。
情報収集。
そのどれも情報が生命線だ。
だからこそ。
「摩夜さんには、その土俵で戦っていただきます」
公開情報の分析。
ネット上の情報収集。
相手の動きの把握。
必要であれば世論形成。
真利の行動を先読みする。
表では決して見えない戦場で、摩夜は最大の力を発揮する。
そして。
聖奈自身。
「お二人が真利様を消耗させてくだされば」
情報。
時間。
人的資源。
信用。
それらを削ったところへ。
「最後は、わたくしが資本で押し切ります」
それが聖奈の役目だった。
企業。
契約。
投資。
買収。
資金調達。
その全ては、自分の専門分野だ。
相手が最も苦しい局面で。
最も効果的な一手を打ち込む。
それが勝利への最短距離。
「役割分担は明確ですね」
凛が盾となる。
摩夜が情報戦を担う。
そして自分が資本戦を制する。
三方向から圧力をかけることで、真利の自由を奪う。
もっとも。
「皆様を巻き込むつもりはございません」
勇者様。
結衣さん。
陽葵さん。
三人の顔が浮かぶ。
事情を話せば、きっと力を貸してくれる。
それは疑っていない。
しかし。
「今は、まだ早すぎます」
勇者様なら。
真正面から真利のところへ向かい、
『話せば分かる!』
と笑顔で言いそうだった。
結衣は心配して止めるだろう。
陽葵は勢いで付いていく。
それでは、この戦いの本質が変わってしまう。
「ですので」
聖奈は静かに決める。
「事情だけ、お伝えいたしましょう」
真利が動いていること。
少し警戒してほしいこと。
その程度で十分。
詳しい内容は伏せる。
危険も。
作戦も。
自分たちだけで引き受ける。
「勇者様には」
柔らかな笑みが浮かぶ。
「いつも通り、笑っていていただきたいのです」
その笑顔を守ること。
それが、自分たちの役目なのだから。
車は静かに青葉高校へ到着する。
聖奈は制服の襟を整え、ゆっくりと車を降りた。
表情はいつもの穏やかな西園寺聖奈。
しかし、その胸の内では。
真利との静かな戦いが、すでに始まっていた。




