第56話 空から始まる豪遊旅行と、招かれざる世界一の投資家
豪遊旅行二日目。
京都の朝は、昨日とはまた違う空気をまとっていた。
ヴィラの大きな窓から差し込む朝日が、木目の床を黄金色に照らしている。
ハルトは勢いよくカーテンを開けると、大きく伸びをした。
「よーし! 今日は一日観光だ!」
その一言だけで、リビングに集まっていた全員の視線が向く。
「昨日は豪遊って感じだったけど、今日は京都を思いっきり楽しもうぜ!」
「昨日も十分観光してた気がするんだけど……」
結衣が苦笑する。
京都についたのが夕方なのだ、満足ができるほど観光はできてない。
「ですが、本日は勇者様のおっしゃる通り、京都観光が中心となります」
「まずは天橋立ですね」
凛が確認するように言う。
「うん!」
ハルトは元気よくうなずいた。
「今日は空から見るらしい!」
「普通はそんな見方しないけどね……」
結衣はもう諦めたように笑う。
この旅行で「普通」という言葉は、ほとんど意味を失っていた。
世界最高級のヴィラ。
世界的シェフによる料理。
プライベートジェット。
そして今日はヘリコプター。
高校生の旅行とは思えない予定表に、今さら驚く者はいない。
「朝ご飯は移動しながら食べるんだよな?」
「はい」
聖奈がうなずく。
「昨日お越しいただいたシェフの皆様に、お弁当をご用意いただいております」
「やった!」
ハルトの目が輝く。
「昨日の料理、本当にうまかったもんな!」
「ふふっ。皆様、大変張り切って作られておりました」
「世界中の料理人が憧れる勇者様のお弁当ですから」
摩夜がぼそりと付け加える。
「……世界中かどうかはともかく、昨日の料理人たちは徹夜してたらしいよ」
「え?」
「献立を最後まで悩んでいたそうだ」
「そんなに?」
「勇者様のお口に合わなければ料理人として死んだも同然、と」
「いやいやいや!」
ハルトは慌てて両手を振る。
「そこまで気にしなくていいのに!」
本人は本気でそう思っている。
だからこそ、周囲は余計に頭を抱えるのだ。
「それでは参りましょう」
聖奈の合図で、一行はヴィラを後にした。
外では高級ワゴン車がすでに待機している。
荷物は最低限。
今日は完全な観光日和だった。
車が静かに走り始めると、すぐに人数分のお弁当が配られた。
「おお!」
ハルトは思わず声を上げる。
二段重ねの木箱。
ふたを開けた瞬間、彩り豊かな料理が目に飛び込んできた。
「すご……」
結衣も思わず息をのむ。
「これ、お弁当っていうより料亭じゃん」
季節の焼き魚。
だし巻き玉子。
京都野菜の炊き合わせ。
和牛のロースト。
湯葉や生麩。
色鮮やかな手まり寿司。
小さな器に入った甘味まで添えられている。
「これ絶対写真映えする!」
ハルトはすぐにスマホを取り出した。
「まずはサムネ用!」
「食べる前に撮影ね」
結衣も慣れた様子でカメラを構える。
凛は護衛の視点で周囲を確認しながらも、少しだけ弁当を見つめる。
「……美しい」
「刀じゃないんだから」
「いや、芸術品にも見える」
真面目に答える凛へ、結衣が思わず笑った。
陽葵は静かに手を合わせる。
「いただきます」
その穏やかな声につられるように、全員が手を合わせた。
「いただきます!」
車内へ笑顔が広がる。
「うまっ!」
一口食べた瞬間、ハルトが目を丸くした。
「昨日とはまた違う!」
「移動中でも食べやすいように味付けが工夫されていますね」
聖奈が感心したようにつぶやく。
「冷めても香りが立つよう調整されています」
「そこまで考えてるのか……」
ハルトは感動しながら次々と箸を進める。
「動画でも紹介したいな」
「朝ご飯だけで一本撮れるんじゃない?」
「いや、それはさすがに地味かな?」
「ハルトの場合、その後に魔法でお弁当箱がお城になるとかやりそうだから十分派手になるよ」
「それ面白そう!」
「食いつくな!」
朝から変わらない二人のやり取りに、車内は笑いに包まれた。
窓の外では京都の町並みが少しずつ自然豊かな景色へ変わっていく。
目的地は、日本三景の一つ――天橋立。
その近くに設けられたヘリコプター発着場だった。
到着すると、プロペラを止めた一機の大型ヘリが待機している。
「おぉー!」
ハルトは少年のように目を輝かせた。
「ヘリって近くで見るとすげぇ!」
「勇者様、本日は遊覧飛行用に特別便をご用意しております」
「ありがとう、聖奈!」
「いえ。勇者様に楽しんでいただくことが何よりですので」
操縦士が笑顔で出迎え、安全説明を始める。
結衣は説明を聞きながら、ちらりとハルトを見る。
完全に目が輝いていた。
(……これは絶対、子どもみたいにはしゃぐやつ)
案の定だった。
「早く乗ろうぜ!」
「順番!」
「走らない!」
「分かってるって!」
「分かってないから言ってるの!」
そんなやり取りを交えながら、一行は機内へ乗り込んでいく。
やがてエンジン音が大きくなり、機体がゆっくりと浮き上がった。
地面が離れ、建物が小さくなっていく。
そして数分後。
眼下に、海を真っすぐ貫く一本の美しい砂州が姿を現した。
「おぉぉぉぉ!」
ハルトが思わず窓へ顔を寄せる。
「これが天橋立か!」
青い海を二つに分けるように続く白い砂浜。
そこへ緑豊かな松林が帯のように伸びている。
空から見下ろすその景色は、まさに空へ架かる橋そのものだった。
「すっげぇ……!」
ハルトは言葉を失う。
「これ、動画じゃ伝わりきらないくらいきれいだ!」
その感動した横顔を見ながら、結衣は自然とカメラを向ける。
(この顔が一番いい映像になるんだよね)
画面の中では、世界最強の勇者が、ただ一人の高校生として無邪気にはしゃいでいた。
ヘリコプターは高度を上げながら、ゆっくりと天橋立の上空へ近づいていく。
窓の向こうには、どこまでも続く青。
空の青。
海の青。
二つの青に挟まれるように、一本の細長い緑がまっすぐ伸びていた。
「すごい……」
結衣が思わず息を漏らす。
海面は太陽の光を受けてきらきらと輝き、まるで無数の宝石を散りばめたようだった。
その真ん中を貫く白い砂浜と、およそ八千本もの松が生い茂る緑の帯。
空から見下ろして初めて分かるその形は、まさに天へ架かる一本の橋だった。
「だから天橋立っていうのか!」
ハルトが感嘆の声を上げる。
「本当に空へ続いてるみたいだ!」
ヘリコプターは速度を落とし、ゆっくりと旋回を始める。
左右どちらの席からでも景色が楽しめるよう、操縦士が丁寧にコースを取ってくれているのだ。
「皆様、ご覧ください」
聖奈が窓の外を指さす。
「砂州の全長は約三・六キロメートル。左右で海の色が微妙に違うのがお分かりになりますか?」
「ほんとだ!」
陽葵が窓に顔を近づける。
「片方は濃い青で、もう片方は少しエメラルドグリーンっぽいです!」
宮津湾と阿蘇海。
二つの海は同じ青でも表情が違う。
陽光を反射する波紋が、まるで絵画のような美しさを生み出していた。
「これは……」
凛も珍しく目を奪われる。
「戦場で空を飛ぶ魔物に乗ったことはあるが、このような景色を楽しむ余裕はなかった。」
「平和だからこそ見られる景色ですね」
聖奈が微笑む。
「ええ」
凛も穏やかにうなずいた。
「平和とは、実に美しい。」
その一言に、一瞬だけ機内が静かになる。
誰もが同じ景色を見つめていた。
争いのない空。
穏やかな海。
風に揺れる松林。
この世界だからこその景色だった。
「うわぁ……」
摩夜はスマホで何枚も写真を撮り続けている。
「写真じゃ伝わらない……!」
「動画でも無理かもしれないね」
結衣も苦笑した。
「こういう景色って、実際に見た時のスケール感がすごい。」
「だよな!」
ハルトも大きくうなずく。
「映像でも十分きれいだけど、実際はもっとすげぇ!」
海の上を吹き抜ける風。
太陽の光。
遠くまで続く水平線。
ヘリコプターだからこそ味わえる浮遊感。
そのすべてが合わさって、一枚の絶景を作り上げていた。
「勇者様」
聖奈が微笑みながら尋ねる。
「異世界にも、このような景色はございましたか?」
ハルトは少し考えてから首を振る。
「いや。」
「似た景色はあったけど、こんなに穏やかな場所は少なかったかな。」
「空飛ぶ魔物が襲ってきたり。」
「巨大な鳥に追いかけられたり。」
「空中に浮かぶ島が落ちてきたり。」
「そんなのばっかだった。」
「比較対象がおかしいのよ。」
結衣が即座にツッコむ。
「こんな景色と空中戦を並べないで。」
「でもさ。」
ハルトはもう一度窓の外を見つめる。
「俺、この景色好きだな。」
「なんか安心する。」
その言葉に、五人は自然と笑みを浮かべた。
世界を救うために空を飛んでいた勇者。
その勇者が今は、ただ景色の美しさに感動している。
それだけで、この旅に来た意味があった。
「ほら見て!」
陽葵が小さく声を上げる。
「船!」
眼下では観光船がゆっくりと天橋立の脇を進んでいた。
上から見ると、まるで青いキャンバスに白い線を描いているようだった。
「ミニチュアみたい!」
「本当だ!」
ハルトは目を輝かせる。
「全部おもちゃみたいに見える!」
「空から見ると世界ってこんなに違うんだね。」
結衣はカメラを回し続ける。
レンズ越しに映るのは絶景だけではない。
それを見て心から笑っている仲間たちの姿だった。
ヘリコプターはさらに大きく旋回する。
天橋立の全景がゆっくりと視界いっぱいに広がる。
緑と白と青。
三色だけで描かれた、日本が誇る絶景。
「これ……」
ハルトはぽつりとつぶやく。
「空から見る天橋立って、別格だな。」
「ええ。」
聖奈も静かにうなずく。
「地上から見ても十分美しい場所ですが、この景色はヘリコプターだからこそ味わえる特別な景色です。」
「来てよかった!」
ハルトは満面の笑みで言った。
「これだけでも京都まで来た価値があった!」
その言葉に、機内の全員が大きくうなずく。
旅はまだ始まったばかり。
だが、この空から見た天橋立は、六人の心に忘れられない景色として深く刻まれていた。
約二十分ほどの遊覧飛行を終え、ヘリコプターは静かに発着場へと降り立った。
プロペラの回転がゆっくりと止まる。
扉が開くと、爽やかな潮風が六人を迎えた。
「いやぁー!」
ハルトは大きく伸びをする。
「最高だった!」
「想像以上だったね」
結衣も満足そうに笑う。
「テレビで何度も見たことはあったけど、空から見ると全然違う。」
「別物でしたね」
陽葵も何度もうなずく。
「まるで一枚の絵を見ているみたいでした。」
「写真を見返しても信じられないな……」
摩夜はスマホを操作しながら感嘆の声を漏らす。
「加工なしでこれとか反則でしょ。」
「動画の編集が楽しみだ!」
ハルトはもう次の投稿のことを考えている。
「絶対みんな驚くぞ!」
「現地で見た感動がどこまで伝わるかだね。」
結衣はカメラのデータを確認しながら微笑んだ。
「映像もきれいだけど、ハルトの反応もちゃんと撮れてるから。」
「マジ?」
「うん。かなりいい感じ。」
「よし!」
ハルトは拳を握る。
「それならバズる!」
「景色じゃなくてそこなのね。」
結衣が苦笑すると、一行は車へ乗り込み、今度は天橋立を一望できる展望台へ向かった。
――――――
「……これは。」
展望台へ到着したハルトは思わず足を止めた。
目の前いっぱいに広がる絶景。
先ほどまで空から眺めていた天橋立を、今度は高台から見下ろしている。
緑の松林。
白い砂浜。
二つの海を結ぶ一本の帯。
視点が変わるだけで、同じ景色とは思えないほど印象が違っていた。
「空からもすごかったけど……」
ハルトはぽつりとつぶやく。
「ここから見るのもすげぇな。」
「どちらも違った良さがありますね。」
聖奈が穏やかに微笑む。
「空からは壮大さを。」
「こちらからは日本庭園のような美しさを楽しめます。」
「ほんとだ。」
結衣も景色を眺めながら言う。
「空からは一本の橋って感じだったけど、ここから見ると一本の作品みたい。」
「自然ってすごいねぇ。」
陽葵も目を細める。
しばらく誰も言葉を発さなかった。
絶景を前にすると、自然と会話が止まる。
それほどまでに美しい景色だった。
「皆様、お食事の準備が整っております。」
スタッフの案内を受け、一行は展望台に併設されたラウンジへと足を運ぶ。
大きなガラス張りの建物。
店内は木目を基調とした落ち着いた空間になっており、窓際の席からは天橋立を一望できる。
「貸切じゃないんだな。」
ハルトが周囲を見渡す。
数組の客が静かに食事を楽しんでいる。
どの席も落ち着いた雰囲気で、大声で話す者もいない。
「こちらは完全会員制のラウンジでございます。」
聖奈が説明する。
「会員資格にも厳しい審査がございますので、安心してお過ごしいただけます。」
「なるほど。」
ハルトは素直にうなずく。
「だから静かなんだ。」
「勇者様の旅行中は安全面も最優先ですので。」
凛は周囲を確認しながら席へ着く。
護衛としての警戒は続けているものの、その表情には少しだけ安堵の色があった。
不用意に近づいてくる観光客もいない。
隠し撮りをする者もいない。
まさに落ち着いて過ごせる空間だった。
「わぁ……」
陽葵が思わず声を上げる。
「席からも天橋立が全部見えます。」
「景色を楽しみながら食事なんて贅沢だなぁ。」
ハルトも窓際へ近づく。
大きな窓は一枚の額縁のように景色を切り取り、その向こうには日本三景が静かに広がっていた。
「これは食べる前から満足しちゃうね。」
結衣が笑う。
「いや。」
ハルトは真剣な顔で首を振った。
「景色と料理は別腹だ。」
「そんな言葉初めて聞いた。」
全員が席に着くと、タイミングを見計らったように料理が運ばれてくる。
白磁の大皿。
色鮮やかな前菜。
旬の京野菜。
日本海で水揚げされた新鮮な魚介。
香り高い炊き込みご飯。
そして目の前で仕上げられる温かな椀物。
どれも素材の美しさを最大限に活かした、目にも鮮やかな料理だった。
「うわぁ……。」
結衣が思わず見入る。
「これ、また写真撮らなきゃ。」
「もちろん!」
ハルトはすでにスマホを構えていた。
「今日は景色も料理も最高だからな!」
「映える要素しかないね。」
摩夜も写真を撮り始める。
窓の外には天橋立。
テーブルには一流の料理。
まさに非日常そのものだった。
「それでは。」
聖奈が穏やかに微笑む。
「本日の昼食も、どうぞお楽しみください。」
六人は手を合わせる。
「いただきます。」
窓の外には、夏の日差しを浴びて輝く天橋立。
最高の景色と、最高の料理。
豪遊旅行二日目の昼が、ゆっくりと始まった。
窓の外に広がる天橋立を眺めながら、一行はゆったりと昼食を楽しんでいた。
「これもうまい!」
ハルトが頬を緩める。
「京都って何食べてもレベル高いな!」
「勇者様がお気に召されたようで何よりです。」
聖奈は穏やかに微笑む。
だが、その視線は時折ラウンジ全体へ向けられていた。
自然な動作。
しかし周囲の様子は細かく確認している。
凛もまた同じだった。
護衛として、入店する客やスタッフの動きにさりげなく注意を払っている。
「このお魚もおいしいです。」
陽葵が幸せそうに頬を押さえる。
「脂が乗ってるのに全然重くない。」
「この出汁もすごいな。」
摩夜は椀物を口に運びながら感心する。
「素材の味しかしないのに、ちゃんと深みがある。」
「料理評論家みたい。」
結衣が笑う。
「最近そういう動画見すぎた。」
「勉強だから。」
「趣味でしょ。」
そんな穏やかな空気が流れていた、その時だった。
「――これは驚きました。」
一人の女性の声が聞こえた。
「まさか、このような場所でお会いできるとは。」
六人の視線が自然とそちらへ向く。
ブランド物のスーツを完璧に着こなし、隙のない立ち居振る舞い。
世界的投資家として知られる女性。
真利だった。
その表情には、いかにも偶然出会ったかのような驚きが浮かんでいる。
「聖奈さん。」
真利は柔らかな笑みを浮かべる。
「ご無沙汰しております。」
「……真利さん。」
聖奈も社交辞令として微笑み返した。
「奇遇ですね。」
「ええ、本当に。」
表面だけ見れば、上流階級同士の洗練された挨拶だった。
だが。
(奇遇……ですって?)
聖奈は心の中だけで冷たく笑う。
(予約情報を調べ、勇者様の予定を追跡し、わざわざこの時間に合わせて来ておいて。)
(それを偶然とおっしゃるのですね。)
表情は崩さない。
笑顔も完璧。
だが胸の内では怒りが静かに燃え上がっていた。
(オークションの際、私ははっきりと申し上げました。)
(勇者様をご紹介する予定はございません、と。)
(それを理解した上で、勝手に接触してくるとは。)
西園寺家の当主候補として育った聖奈には分かる。
これは偶然ではない。
計算された接触だ。
(勇者様を利用するおつもりでしょうか。)
(それとも、本当に勇者様個人へ興味がおありなのでしょうか。)
(どちらであろうと。)
(私の返答を無視した事実は変わりません。)
怒りはあった。
しかし、それを表に出すことだけは絶対にしない。
西園寺聖奈はそういう人間だった。
一方の真利もまた、内心では別の緊張を抱えていた。
(……いた。)
ついに。
異世界最強の勇者。
黄金竜を討ち、世界を救った英雄。
真利は胸の鼓動を必死に抑える。
(落ち着きなさい。)
(私は世界一の投資家。)
(どんな国家元首とだって対等に話してきた。)
(勇者様を前にしたくらいで動揺してどうするの。)
そう自分へ言い聞かせる。
それでも。
目の前にいる少年は、異世界で見上げていた英雄そのものだった。
容姿は多少違う。
年齢も若い。
だが纏う空気は間違いない。
(やっぱり……勇者様。)
ほんの一瞬だけ。
真利の胸に、懐かしさが込み上げた。
異世界で何度も遠くから見送った背中。
英雄譚として語られる存在。
憧れそのもの。
その人物が今、目の前で昼食を食べている。
しかし。
「初めまして。」
ハルトが立ち上がり、自然に頭を下げた。
「一ノ瀬晴人です。」
「結衣たちから話は聞いてませんけど、聖奈さんのお知り合いですか?」
屈託のない笑顔。
初対面そのものの挨拶。
その瞬間。
真利の心が、ほんの少しだけ揺らいだ。
(……覚えて、いない。)
ほんのわずか。
胸の奥がちくりと痛む。
(そう、ですよね。)
(私は勇者様にとって特別な存在ではありませんでした。)
異世界での自分は、勇者が討伐した魔物の素材を買い取る商会の店長。
数え切れない商人の一人。
勇者にとって印象に残るほどの人物ではない。
頭では理解していた。
理解していたはずなのに。
実際に「初めまして」と言われると、思った以上に胸へ刺さる。
(……いいえ。)
真利はすぐに自分へ言い聞かせる。
(転生しているのですもの。)
(姿も違う。)
(年齢も違う。)
(覚えていないのも当然。)
(勇者様が悪いわけではない。)
そうだ。
これは仕方のないこと。
むしろ、自分が一方的に知っているだけなのだ。
そう考え直すことで、ようやく表情を崩さずに済んだ。
「初めまして。」
真利は優雅に微笑み、一礼する。
「真利と申します。」
「聖奈さんとは仕事でご縁がありまして。」
「そうだったんですね!」
ハルトは人懐っこく笑う。
「よろしくお願いします!」
その笑顔は昔と何一つ変わっていない。
だからこそ。
(……本当に。)
真利は胸の奥で静かに微笑む。
(勇者様は、勇者様なのですね。)
その一方で。
聖奈はテーブルの下で静かに拳を握り締めていた。
(勇者様は優しい。)
(だから誰に対しても笑顔で接する。)
(ですが。)
(私は違います。)
(真利さん。)
(勇者様へ近づくのであれば、それ相応の覚悟を持っていただきます。)
穏やかな笑顔の奥で。
西園寺聖奈は誰にも気づかれぬまま、静かに闘志を燃やしていた。
ほんの一瞬だけ流れた静寂。
それを破ったのは、真利だった。
「せっかくですので、ご挨拶だけでもと思いまして。」
柔らかな笑みを浮かべながら、ハルトへ視線を向ける。
「一ノ瀬さん。」
「はい。」
「先日のオークションでは、大変貴重なお品を拝見させていただきました。」
「ああ、あの黄金のドラゴンですか!」
ハルトは気さくに笑う。
「いやぁ、まさかあんな値段になるとは思ってなかったです。」
「私も驚きました。」
真利は上品に微笑む。
「ですが、それ以上に興味を惹かれたのは、一ノ瀬さんご自身です。」
「俺ですか?」
「ええ。」
真利は落ち着いた口調で続ける。
「私どもの仕事では、多くの才能ある方々とお会いします。」
「ですが、一ノ瀬さんのような方は初めてでした。」
「ははっ。」
ハルトは照れくさそうに頭をかく。
「そんな大した人間じゃないですよ。」
(……変わらない。)
真利は内心で苦笑する。
(異世界でも、これほどの偉業を成し遂げながら、自分を英雄だとは思っていなかった。)
(この人は本当に、昔のまま。)
「もし機会がございましたら。」
真利は一歩だけ距離を詰める。
「いつか、お仕事でもご一緒できれば幸いです。」
「仕事?」
ハルトは首をかしげる。
「俺、会社は作りましたけど、まだ全然分かってないんですよ。」
「だから聖奈たちに任せっきりで。」
「でしたら、なおさらです。」
真利は視線を聖奈へ移した。
「西園寺さん。」
「……はい。」
「お互い、同じ業界で活動する者同士。」
「今後どこかでご一緒する機会もあるでしょう。」
「その際は、ぜひよろしくお願いいたします。」
穏やかな笑顔。
非の打ち所がない挨拶。
誰が聞いても社交辞令として成立する、美しい言葉だった。
「こちらこそ。」
聖奈も微笑み返す。
「その際は、どうぞよろしくお願いいたします。」
二人は笑顔のまま見つめ合う。
傍から見れば、理想的なビジネスパーソン同士の会話。
しかし。
("ご一緒する機会"、ですか。)
聖奈は心の中だけで静かに応じる。
(勇者様を通じて、その機会を作ろうとなさらないのであれば結構です。)
(ですが。)
(勇者様を巻き込むような真似だけは、お断りいたします。)
決意は変わらない。
勇者を守る。
それが今の自分の役目だ。
一方で真利もまた、聖奈の視線から意思を感じ取っていた。
(やはり簡単には近づけませんね。)
(当然です。)
(あなたは勇者様を守る立場。)
(私なら同じことをします。)
敵意ではない。
警戒。
それを理解しているからこそ、真利はそれ以上踏み込まなかった。
「それでは。」
真利は最後にハルトへ一礼する。
「本日はお食事中にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございました。」
「いえいえ!」
ハルトは笑顔で手を振る。
「こちらこそ!」
「またどこかで会ったらよろしくお願いします!」
「ええ。」
真利は微笑んだ。
「その日を楽しみにしております。」
そう言い残し、静かな足取りでラウンジを後にする。
その背中が見えなくなってから。
ようやく結衣が小さく息を吐いた。
「なんか……すごい人だったね。」
「世界的な投資家だからね。」
摩夜が答える。
「テレビで見るよりオーラがあった。」
「優しそうな人だったな。」
ハルトは率直な感想を口にする。
「話しやすかったし。」
「……そうですね。」
聖奈は柔らかく微笑む。
その返事に嘘はない。
少なくとも表面上は。
だが。
(今回は、ご挨拶だけ。)
(それ以上はなさいませんでした。)
(でしたら、この件はここまでにいたしましょう。)
心の中でそう結論づける。
必要以上に敵を作るつもりはない。
勇者が望むのは、穏やかな日常なのだから。
「さて!」
ハルトは両手を合わせた。
「料理が冷める前に食べよう!」
「まだ食べるの?」
結衣が思わず笑う。
「もちろん!」
「せっかくの豪華な昼飯なんだから!」
そう言って嬉しそうに料理へ手を伸ばすハルトを見て、五人も自然と笑みを浮かべた。
窓の外には、どこまでも続く天橋立。
穏やかな夏空の下、ゆっくりと流れる時間。
豪遊旅行二日目の昼は、再び和やかな空気に包まれながら過ぎていくのだった。




